[2018.05.20] 경건의 능력으로 살고 있습니까?(디모데후서 3:1-5) 장원규목사

경건의 능력으로 살고 있습니까?

말세의 특징을 설명하면서 등장하는 단어가‘고통’입니다. 왜 말세가 고통으로 설명 되어질까요? 결론부터 말하면 경건의 모양은 있으나 경건의 능력이 없기 때문입니다. 하나님은 우리를 사랑하셨습니다. 그 사랑의 확증이 바로 예수 그리스도입니다. 그런데 하나님을 믿는 우리는 어떠한가요? 우리가 하나님을 믿는다면 경건의 능력이 있어야 합니다. 그렇다면 오늘 사도바울이 지적하는 경건의 모양만 있는 삶은 어떤 삶일까요?  자기 사랑입니다. 자기 사랑이란 자신이 주인이 되는 것입니다. 성경에‘자기를 위해’라는 표현을 사용할 때는 좋은 뜻으로 사용한 적이 거의 없습니다. 자기 사랑의 대표적인 행위가 우상숭배였습니다.

“내가 본즉 너희가 너희의 하나님 여호와께 범죄하여 자기를 위하여 송아지를 부어 만들어서 여호와께서 명령하신 도를 빨리 떠났기로”(신명기 9:16)

“또 그들이 자기들을 위하여 송아지를 부어 만들고 이르기를 이는 곧 너희를 인도하여 애굽에서 나오게 한 신이라 하여 하나님을 크게 모독하였사오나”(느헤미야 9:18)

분명 하나님은 자기를 위하여 우상을 만들지 말라고 하셨습니다.

“너는 자기를 위하여 새긴 우상을 만들지 말고 위로 하늘에 있는 것이나 아래로 땅에 있는 것이나 땅밑 물 속에 있는 것의 어떤 형상도 만들지 말며”(신명기 5:8)

그런데 자기를 사랑하면 자기에게 집중하게 되고 자기를 위해서 무엇을 하면 좋을까 하면서 하는 첫 번째가 우상을 만드는 일입니다. 하나님이 그의 백성에게 요구하신 것은 하나님을 사랑하는 것입니다. 하나님 사랑은 마음을 다하고 뜻을 다하여 하나님을 섬기는 것이라고 했습니다. 그런데 말세에 사람들은 자기를 사랑하고 돈을 사랑하고 자랑하며 교만합니다. 이기적인 이 모습은 자기 사랑으로 함축됩니다. 자기 사랑은 공동체를 손상시키는 죄들로 이어지는데 ‘비방하며 부모를 거역하며 감사하지 아니하며 거룩하지 아니하며, 무정하며 원통함을 풀지 아니하며 모함하며 절제하지 못하며 사나우며 선한 것을 좋아하지 아니하며 배신하며 조급하며 자만하며’입니다.

하나님을 사랑해야 할 존재가 자기를 사랑하면 결국 하나님이 사랑하라고 주신 이웃들과도 사랑하지 못하는 모습으로 이어집니다. 여기서 끝나지 않고 ‘쾌락을 하나님보다 사랑하는 것’입니다. 결국 자기 사랑은 하나님보다 다른 것을 더 사랑하는 것입니다.

이 모든 것이 경건의 모양은 있으나 경건의 능력은 부인하는 자들의 모습인 것입니다. 경건의 모양은 있으나 능력이 없는 이스라엘 백성을 향해서 경고하신 말씀이 말라기 1장에 있습니다. 하나님은 더러운 떡을 드리면서, 눈 먼 희생 제물을 바치면서 그것이 악하다고 생각하지 아니하는 백성을 향하여 헛된 제사를 하지 못하게 성전 문을 닫을 자가 있었으면 좋겠다고 하시며 그 제사를 받지 않으시겠다고 하셨습니다. 참 무서운 말씀입니다. 이것이 단지 이스라엘 백성만의 모습일까요? 지금 이 말씀을 읽고 있는 우리에게도 말씀하십니다. 경건의 모양은 있지만 능력은 부인하는 자는 복음에 대한 바른 믿음이 없는 자입니다. 그리스도의 구원의 능력에 대한 믿음이 없는 자입니다. 내가 이렇게 살고 있다면 그런 삶에서 떠나야 합니다. 하나님을 믿으면서, 입으로는 그리스도인이라고 하면서 하나님보다 자기를 사랑하여 결국 경건의 모양만으로 살고 있다면 우리는 이제 경건의 능력을 회복해야 합니다.

여러분의 삶은 어떠십니까? 경건의 모양과 함께 경건의 능력이 드러나고 있습니까? 우리는 어떻게 경건의 능력을 얻을 수 있을까요?

첫째는 하나님의 말씀으로 얻을 수 있습니다.

“모든 성경은 하나님의 감동으로 된 것으로 교훈과 책망과 바르게 함과 의로 교육하기에 유익하니 이는 하나님의 사람으로 온전하게 하며 모든 선한 일을 행할 능력을 갖추게 하려 함이라. (디모데후서 3:16). 하나님의 말씀이 우리에게 능력을 주십니다.

敬虔の力で生きていますか 

世の終わりの時の特徴を説明する際出てくる単語が「苦痛」です。なぜ、世の終わりが苦痛で説明されるでしょうか。結論から言うと敬虔の形はあるが、敬虔の能力が無いからです。主は我々を愛されました。その愛の印がまさにイエスキリストです。しかし、主を信じる我々はどうでしょうか。私たちが主を信じるならば敬虔の能力があるはずです。今日の御言葉の使徒パウロが指摘している敬虔の形だけある人生はどんな人生でしょうか。

自己愛です。自己愛とは自分が自分の主人になることです。聖書に‘自分の為’と記載された内容で良い意味で使われた事はほとんどありません。自己愛の代表的な行為が偶像崇拝です。

“私が見ると、見よ、あなたがたはあなたがたの神、【主】に罪を犯して、自分たちのために鋳物の子牛を造り、【主】があなたがたに命じられた道から早くもそれてしまっていた。”(申命記9:16)

“彼らが自分たちのために、一つの鋳物の子牛を造り、『これがあなたをエジプトから導き上ったあなたの神だ』と言って、ひどい侮辱を加えたときでさえ、”(ネヘミヤ記9:18)

  確実的に主は自分のため偶像を作らないよう言いました。

“あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。”(申命記5:8)

しかし、自分を愛すると自分に集中することになり、自分のために何をすれば良いかを考える初めの事が偶像を作ることです。主が主の民に命じたのは主を愛することです。主に対する愛は心を尽くして、まことを尽くして主におのれを捧げる事だと記載されています。しかし、世の終わりの時の人たちは自分を愛し、お金を愛し、自慢し、傲慢に陥ります。利己的なこの姿は自己愛で現れます。自己愛は共同体を崩す罪人になりますが“不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者”等です。

主を愛すべき存在が自分を愛すると結局主が愛し合いなさいと言われた隣人とも愛する事が出来ない姿を見せます。これで終わらず“快楽を主より愛する事”になります。つまり、自己愛は主より他をもっと愛する事です。

この全てが敬虔の姿はあるが、敬虔の能力を認めない者たちの姿です。敬虔の姿だけあり、能力が無かったイスラエルの民に対して警告した御言葉がマラキ書1章に記載されています。主は汚れたパンを捧げながら、盲目の獣をいけにえにささげながらそれが悪いと思わない民に対して、“あなたがたがわたしの祭壇に、いたずらに火を点ずることがないように、戸を閉じる人は、だれかいないのか。わたしは、あなたがたを喜ばない”とおっしゃいました。恐ろしい御言葉です。これがただイスラエルの民だけの姿でしょうか。

今、この御言葉の前にいる私たちにおっしゃいます。敬虔の姿はあるが、能力を認めない者は福音に対して正しい信仰を持っていない者です。キリストの救いの能力を信じない者です。私が、貴方がこの姿をしているのであればその姿から離れるべきです。主と信じながら、言葉ではキリスト者だと言いながら主より自分を愛し、結局敬虔の姿だけで生きているのであれば、私たちは今、敬虔の能力を回復すべきです。皆さまの人生はどうでしょうか。敬虔の姿と共に能力がありますか。私たちはどうすれば敬虔の能力を得る事が出来ますでしょうか。

一つ目、主の御言葉から得る事が出来ます。

 “聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。(テモテ第二3:16)  主の御言葉が私たちに力を下さいます。

二つ目、祈りです。

敬虔の姿はあるが能力が無かった人々のたとえ話をイエスがマルコの福音書を通して教えて下しました。マルコの福音書9章は霊に取りつかれた息子をイエスが治した事が記載されています。霊に取りつかれた息子を父親が連れて来た時、弟子たちは治せませんでした。結局イエスに連れて来て治されました。その後、弟子たちが聞きます。“どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが。”主が答えます。“この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。”하主を信じながら、しかし祈らないのであれば敬虔の姿があるが能力が無い人生を生きるしかありません。

  海に住んでいる魚が生きているうちにはしょっぱくありませんが、不思議に死んだ魚に塩をかけるとしょっぱくなります。これを私たちの霊的状態に適応して見ると姿を持っていれば能力もただで着くものでは無いことを分かります。たまには敬虔の姿で私たちは間違って思うかもしれません。しかし、主は確実的におっしゃっています。“こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。”(マタイの福音書7:20-21)

   実で分かると言います。私たちは今、敬虔の姿でここに座っています。これで満足するのではなく敬虔の能力がある人生に向かって歩みましょう。御言葉と祈り無しでは主に歩むことは出来ません。主の能力を得ることも出来ません。

“神の国はことばにはなく、力にあるのです。”(コリント第一4:20)

み 言葉1ことばに 1いきる」ロゴスライフ教会

 

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