[2018.05.28] 도덕적인 인간의 두 번째 부류-양심(10)(로마서 2:12-16) 장원규목사

도덕적인 인간의 두 번째 부류-양심(10)

 

오늘 본문인 로마서2장12-16절 말씀은 도덕적 인간 중 두 번째 부류에 대해 이야기하고 있습니다. 바로 양심주의자입니다. 인간의 양심으로 모든 의와 선을 완벽하게 이룰 수 있다고 믿는 사람들을 말합니다.

사도바울은 디모데 전서를 통해 “선한 양심”, “착한 양심”, “깨끗한 양심”을 강조하고 있습니다. 바울은 왜 양심 앞에 수식어로 ‘선한’, ‘착한’, ‘깨끗한’을 붙인 것일까요? 그 이유는 인간이 죄를 지은 이후 인간의 양심 자체가 오염되었기 때문입니다. 하나님의 도우심 없이 인간 스스로 양심을 정화하고 회복시키기는 불가능하기 때문입니다. 웅덩이에 고여 있는 썩은 물은 스스로는 정화할 수 없듯이 죄에 의해 타락한 인간의 양심도 이와 같습니다. 스스로 완전하게 회복될 수 없기에 하나님의 도우심이 필요한 것입니다. 이것이 양심에 대한 성경의 인식입니다. 이 인식을 바탕으로 성경은 양심주의자를 두 부류로 나누어 말씀합니다.

첫째는 하나님의 법을 모르거나 무시하는 양심주의자입니다.

그런 부류의 양심주의자들에 대해 로마서2장12절은 이렇게 말씀하고 있습니다.

“무릇 율법 없이 범죄한 자는 또한 율법 없이 망하고”

하나님의 법이 전해지지 않았기 때문에 모르든지, 아니면 의도적으로 하나님의 법을 무시하든지 간에 하나님의 법 없이 자기 양심만으로 의를 이루며 살아갈 수 있다고 생각하는 사람입니다. 사람들은 법이 없으면 죄가 없습니다. 정확하게 말하면 법이 없는 곳에 죄가 없는 것이 아니라 죄에 대한 인식이 없을 뿐입니다. 즉 죄에 대해 인식하지 못할 뿐이지, 죄는 죄로 그대로 남아 있는 것입니다. 그래서 하나님의 법, 하나님의 잣대 없이 우리의 양심대로 살면 반드시 망하는 것 즉 죽은 것임을 성경은 분명하게 말씀하고 있습니다.

둘째는 하나님의 법을 가진 양심주의자입니다.

“무릇 율법이 있고 범죄한 자는 율법으로 말미암아 심판을 받으리라.”(롬2:12후)

양심주의자의 두 번째 부류의 사람은 하나님의 법을 가지고 있습니다. 그런데 문제는 이런 부류의 사람들의 특징은 하나님의 은혜 없이 자기 양심만으로 하나님의 법을 구현할 수 있다고 믿는 사람입니다. 즉 자기 힘, 자기 공로로 하나님의 말씀을 다 지킬 수 있다고 믿는 사람입니다. 과연 그럴 수 있습니까? 그럴 수 없습니다. 하나님의 도우심 없이는 하나님의 법을 ‘상대적으로’ 지킬 수밖에 없기 때문입니다. 이런 사람은 하나님 명령을 10%밖에 못 지키고 있는데 자신은 잘 지킨다고 생각하고 있습니다. 자기만족, 자기 착각에 빠져 있는 것입니다. 자신이 드러내는 의는 상대적인 것인데도 그것이 절대적이 의라고 생각하는 것입니다. 그리고 스스로를 의인이라 착각하고 있다가 결국 심판을 당하고 맙니다. 우리는 하나님께서 요구하시는 행함이 상대적인 것이 아닌 절대적인 것임을 알아야 합니다.

그렇다면 우리가 해야 할 일은 무엇입니까?

“그러므로 사람이 의롭다 하심을 얻는 것은 율법의 행위에 있지 않고 믿음으로 되는 줄 우리가 인정하노라.”(롬3:28)

인간은 죽었다 깨어나도 율법을 다 지켜 온전해 질 수가 없습니다. 그럼 우리는 의로운 자가 될 수 없는 것입니다. 의로운 자가 될 수 없다면 의로우신 하나님 앞으로 나아갈 수 없고 하나님과 함께 할 수 없는 인생이 되고 그런 인생은 다 심판 아래 놓이게 됩니다. 그러니 우리는 율법을 다 지킬 수 없는 죄인인데 영생의 삶을 불가능한 것입니다. 우리에게 도저히 그 어떤 가능성을 찾을 수 없는 멸망자 인생일 뿐입니다. 그런데 의로우신 하나님께서 우리에게도 하나님께 인정받을 수 있는 의의 길을 열어 주신 것입니다. 그것이 바로 하나님의 의이신 예수 그리스도를 믿으면 누구나 할 것 없이 ‘다 의롭다’라고 여겨주시겠다는 말씀인 것입니다. 이 약속은 너무나 감격적인 말씀인 것입니다. 그러니 우리의 부족한 의를 주님께서 다 채워 주신다는 사실을 정말 깨닫는다면 이 사실을 정말 믿는다면 지금 우리가 어떤 삶을 살아갈 수 있겠습니까? 그런 주님께 감사하면 기쁨과 순종의 삶 외에는 다른 삶이 있을 수 없는 것입니다. 그래서 사도바울이 이런 말씀을 하셨던 것입니다.

“항상 기뻐하라 쉬지 말고 기도하라 범사에 감사하라 이것이 그리스도 예수 안에서 너희를 향하신 하나님의 뜻이니라.”(살전5:16-18)

성도 여러분 마음속에 기쁨이 있으십니까? 감사가 있으십니까? 기쁨과 감사는 사라진지 오래고 혹시 답답하고 무미건조하며 무거운 부담만 있는 것은 아닙니까? 하나님은 우리들에게 항상 기뻐하고 늘 감사하며 행복하게 살라시는데 과연 여러분들은 요즘 행복하십니까?

만일 그렇지 못하다면 그 이유가 어디에 있다고 생각하십니까? 세상이 점점 살기가 힘들어지고 어려워지기 때문일까요? 많은 사람들은 그렇게 생각하지만 정말 세상이 점점 살기 힘들고 어려워져서 우리가 기쁨과 감사를 잃고 살아가고 있는 것일까요? 세상이 좀 나아지면 기뻐하고 감사하며 살 수 있게 될까요? 행복해 질 수 있을까요? 그렇지 않습니다.

사람들은 세상이 바뀌어야만 기뻐하며, 감사하며, 행복하게 살 수 있을 것이라고 생각하지만 그렇지 않습니다. 세상이 바뀌어야 하는 것이 아니라 내가 바뀌어야만 합니다. 세상에 문제가 있는 것이 아니라 나 자신에게 문제가 있는 것입니다.

오늘 이 말씀을 들으면서 하나님이 내게 베풀어 주신 모든 은혜를 계수해 보도록 합시다. 그리고 넘치는 감사를 가지고 한 주간 힘 있게 사시고 다음주 하나님 전으로 나아와 하나님이 가장 기뻐하시는 감사로 제사를 드리는 저와 여러분들이 다 되실 수 있기를 바랍니다.

말씀과 삶이 어우러지는 로고스라이프 교회

 

道徳的な人の特徴―良心(10) 

本日の本文、ローマ人への手紙2章12-16節のみ言葉は、道徳的な人の二つ目の特徴について話しています。所謂良心主義者のことです。人の良心ですべての義と善に完璧に至ることができるのだと信じている人たちです。

使徒パウロはテモテへの手紙を通して、“正しい良心”、“善い良心”、“きよい良心”と強調しています。パウロは何故、良心の前に修飾語として‘正しい’、‘善い’、‘きよい’をつけたのでしょうか。その理由は人が罪を犯してからは人間の良心そのものが汚染されてしまったからです。主の助けがなくては人間自ら良心を浄化して回復させるのは不可能だからです。水溜りの腐った水が自然に浄化されないように罪によって堕落した人間の良心もそうです。自ら完全に回復できないため、主の助けが必要なのです。これが、良心に対する聖書の認識です。この認識のもとに聖書は良心主義者を二つに分けて言います。

一つ目は、主の法を知らない若しくは無視する良心主義者です。

このような良心主義者に対してローマ人への手紙2章12節はこう言われています。“律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、”

主の法が伝わらなかったがために知らない場合であれ、意図的に主の法を無視してしまう場合であれ、主の法なしに自分の良心をもって正しく生きぬけると思っている人たちです。法のないところに、人に罪をあてがう術はありません。正確に言えば、法が無い所には罪がないというより、罪に対する認識がないといえます。すなわち、罪を認識できないだけで、罪はそのまま残っているということです。ですから、主の法、主の基準なしに良心のままに生きると必ず滅びる、つまりは死ぬのだと聖書では明らかに言われています。

二つ目は、主の法を持っている良心主義者です。

“律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。”(ローマ人への手紙2:12後)

良心主義者の二つ目の部類の人は、主の法を持っています。ところが、問題はこのような部類の人の特徴は主の恵みなしに自分の良心だけで主の法を成し遂げることができるのだと信じている人です。即ち、自分の力、自分の働きで主のみ言葉をすべて守れるのだと信じている人です。本当にそうなのでしょうか。それは、ありえません。主の助けがないと、主の法は‘相対的に’守るようになるからです。このような人は主の命令を実際は10%従っているのに自分はよく従っているのだと思ってしまうのです。自己満足、錯覚に陥っているのです。自分が現す義は相対的にすぎないのに、それが絶対的な義だと思うことです。そして、自分自身を義人だと勘違いしてしまい、結局は裁かれます。主がおっしゃる行いは相対的ではなく絶対的なことであることを知るのが大切です。

では、私たちは何をすればいいのでしょうか。

“人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。”(ローマ人への手紙3:28)

人間は決して律法を完全に守って義に至ることはできません。では、私たちは義になる者になれないのでしょうか。義になる者になれないと義である主の御前に行けないし、主と共に歩めなくなりますし、そのような人生は裁きに至ってしまいます。律法を完全に守れない罪人で永遠なるいのちを得るのは不可能です。  私たちは到底どのような可能性も生み出せない滅亡者の人生なのです。ところが、義である主が主に認められる義の道を開いて下さったのです。それが、主の義であるイエス・キリストを信じれば誰でも“義である”と認めて下さるというみ言葉です。この約束は真に感極まりないみことばではないでしょうか。ですから、私たちの至らぬ義を主が全て満たして下さるということを本当に悟って本当に信じるなら、今どのように生きるのでしょうか。ただ主に感謝し、喜んで聞き従うのではないでしょうか。だからこそ、使徒パウロはこのように言ったのです。

   “いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。”(Ⅰテサロニケ人への手紙5:16-18)

皆様、この時分、喜びはございますか。感謝はおありですか。喜びと感謝はなくなり、ともすると、苦しくて枯れてしまってただ重荷だけが残っているのではないでしょうか。主はいつも喜んで、すべての事に感謝し、幸せであるようにおっしゃるのですが、皆様はいかがでしょうか。幸せでしょうか。

もしそうではないなら、どうしてだと思われますか。世で生きるのが段々厳しくなっているからでしょうか。多くの人たちがそう言いますが、本当に世の中が厳しくて喜びと感謝をなくしてしまったのでしょうか。世の中の状況がすこし生きやすくなったら喜んで感謝しながら生きることができるのでしょうか。幸せになるのでしょうか。そうではありません。世が変わらないと喜び、感謝し、幸せに生きることはできないと思いがちですが、そうではありません。世か変わるのはなく、私が変わるのです。世に問題があるのではなく、自分に問題があるのです。

本日、み言葉を聞きながら、主に与えられたすべての恵みを数えてみましょう。そして、溢れんばかりの喜びをもって一週間力ある生活を営み、来週主の宮に来て、主が最も喜ばれる感謝をもって礼拝を捧げる私自身と皆様となりますようにお祈りいたします。

み 言葉1ことばに 1いきる」ロゴスライフ教会

 

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