[2018.06.03] 도덕적인 인간의 세번째 부류 – 율법주의자 (11) 장원규목사、ロゴスライフ教会

도덕적인 인간의 세번째 부류 – 율법주의자 (11)

하나님께서 만물을 창조하실 때 모든 만물은 겉과 속이라는 두 형태로 만드셨습니다. 겉을 형식이라고 하며 속은 내용 또는 의미라고 말합니다. 중요한 것은 겉과 속 어디에 삶의 비중을 두고 사느냐에 따라 삶의 질과 결과가 달라진다는 것입니다. 문제는 많은 사람들이 눈에 보이는 겉모양에 더 치중하며 살아가는 사람들이 많다는데 있습니다.

예수 그리스도를 믿는 사람들의 삶의 방식은 믿음입니다. 믿음으로 산다는 것은 겉이 아닌 속을 보는 것입니다. 겉을 치장하는 삶이 아닌 속을 단장하는 사람들이 바로 그리스도인이라고 말하는 것입니다. 그래서 하나님께서는 친히 이렇게 말씀을 하셨습니다.

“내가 보는 것은 사람과 같지 아니하니 사람은 외모를 보거니와 나 여호와는 중심을 보느니라.”(삼상16:7)

하나님을 겉을 보시는 분이 아닌 속을 보시는 분입니다. 이처럼 하나님의 시선을 가진 사람을 일컬어 믿음의 사람이라고 말하는 것입니다. 그렇다면 죄라는 것은 무엇이겠습니까? 겉만 보는 것입니다. 진리와 진실을 겉으로 담을 수 있는 것이 아닙니다. 그래서 겉만 보고 판단하고 행동하게 되면 반드시 죄를 짓게 되는 것입니다. 이 모습이 오늘 그리스도인들이 빠질 수 있는 모습임을 우리는 잊지 말아야 합니다.

사도바울은 겉모양에 빠져 사는 자를 가리켜 ‘율법을 의지하여’라고 말씀하고 있습니다. 이 모습이 도덕적인 인간이 빠질 수 있는 세 번째 부류의 사람들인 것입니다. 오늘 함께 읽은 본문은 율법에 의지하여 살아가는 겉모습만 보고 사는 율법주의자가 치중하는 삶의 모습 다섯 가지를 우리에게 소개해 주고 있습니다.

“유대인이라 불리는 네가 율법을 의지하며 하나님을 자랑하며 율법의 교훈을 받아 하나님의 뜻을 알고 지극히 선한 것을 분간하며 맹인의 길을 인도하는 자요 어둠에 있는 자의 빛이요 율법에 있는 지식과 진리의 모본을 가진 자로서 어리석은 자의 교사요 어린 아이의 선생이라고 스스로 믿으니”

첫째는 “하나님 법을 의지하며” 삽니다. 둘째는 “하나님을 자랑하며”삽니다. 셋째는 “율법의 교훈을 받아 하나님의 뜻을 알고” 삽니다. 넷째는 “지극히 선한 것을 분간하며” 삽니다.

다섯째는 “맹인의 길을 인도하는 자요 어둠에 있는 자의 빛이요 율법에 있는 지식과 진리의 모본을 가진 자로서 어리석은 자의 교사요 어린아이의 선생”으로 삽니다.

이와 같이 유대인들은 율법을 의지하고, 율법을 받았으며, 율법을 가진 사람들입니다. 겉으로 보기에 완벽한 하나님의 사람의 모습입니다. 그 어떤 흠도 없는 사람처럼 보입니다.

그러나 그들의 그런 겉모습을 한 꺼풀 벗겨 내고 그 속에는 무엇이 들어 있는가를 들여다 보았습니다. 그 속에 어떤 것을 담고 있는지 다음과 같이 말씀하고 있습니다.

“그러면 다른 사람을 가르치는 네가 네 자신은 가르치지 아니하느냐 도둑질하지 말라 선포하는 네가 도둑질하느냐 간음하지 말라 말하는 네가 간음하느냐 우상을 가증히 여기는 네가 신전 물건을 도둑질하느냐 율법을 자랑하는 네가 율법을 범함으로 하나님을 욕되게 하느냐 기록된 바와 같이 하나님의 이름이 너희 때문에 이방인 중에서 모독을 받는도다.”(롬2:21-24)

바울은 유대인들은 율법을 의지하고, 율법을 받았으며, 말끝마다 하나님의 말씀이 나오는 사람들인데 겉으로 보기에 완벽한 하나님의 사람의 모습인데 실상 그 속은 어떠한 모습을 하고 있는지 설명해 주고 있습니다.

첫째는 “다른 사람을 가르치는 네가 네 자신을 가르치지 아니한 자”였다는 것입니다. 둘째는 “도둑질하지 말라 선포하는 네가 도둑질하는 자”였다는 것입니다. 셋째는 “간음하지 말라 말하는 네가 간음하는 자”였다는 것입니다. 넷째는 “우상을 가증히 여기는 네가 신전 물건을 도둑질하는 자”였다는 것입니다. 다섯째는 “율법을 자랑하는 네가 율법을 범함으로 하나님을 욕되게 하느냐 기록된 바와 같이 하나님의 이름이 너희 때문에 이방인 중에서 모독을 받는 자”였다는 것입니다.

겉으로는 하나님의 사람처럼 행동하였는데 실제로는 하나님의 영광을 가리고 심지어 하나님을 모독하고 있는 삶이었다는 것입니다. 바울이 우리 그리스도인들에게 결론적으로 전해주시는 말씀은 마음에 예수 그리스도의 진리를 채우는 사람만이 진정으로 하나님을 섬기는 사람이라는 것입니다. 그래서 자기 속에 예수 그리스도가 계시지 않는 사람, 자기 속에 하나님의 영이 거하지 않는 사람은 율법주의자가 될 수밖에 없는 것입니다.

우리가 구원받은 그리스도이라면 육체의 삶에 치중하는 삶만을 살아서는 안 될 것입니다. 그 육체를 거룩하게 구별하여 우리의 속사람 즉 하나님의 영을 마음에 온전히 담는 자가 되어야 합니다. 그래서 속과 겉이 점점 더 하나가 되어가야 합니다. 특히 속모양이 겉모양 곧 삶의 모습을 결정하기에 속 사람을 더 강건하게 해야 합니다. 항상 속에 생명이신 주님을 담아 모든 생각과 모든 행위가 주의 영이 역사하여 겉모습은 더 주님을 닮아가고 주님이 영광을 받으시고 주님의 뜻이 이루어지는 삶이 되어야 합니다. 그렇지 않다면 겉모습은 아무리 화려하고 좋게 보이는 율법주의자가 되어 모든 것은 헛되고, 거짓되어 하나님의 심판 앞에 서게 될 것입니다.

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道徳的な人の特徴―良心(11)

 

神が万物を創造された時、すべての万物は心(内)とうわべ(外)という二つの形で造られました。うわべを形式と呼ばれ、心は内容や意味と言います。重要なのは心とうわべどこに生活の比重を置いて生きるかによって、生活の質と結果が変わるということです。問題は、多くの人が目に見える外観に、より重点を置いて生きる人が多いということです。

イエス・キリストを信じる人々の生活の方式は、信仰です。信仰に生きることは、うわべではなく、心を見せることです。うわべを飾る人生ではなく、心を整える人々がまさにクリスチャンと言えるでしょう。それで、神は自らこう言われました。

しかし【主】はサムエルに仰せられた。彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、【主】は心を見る。(サムエル記第一 16:7)

神はうわべを見るのではなく、心を見るみ方です。このように、神の視線を持つ人を信仰に生きる人と言います。では、罪とは何でしょう。うわべだけを見ることです。真理と真実はうわべに飾ることではありません。それで表面だけを見て判断し行動すると、結局罪を犯してしまうのです。このような姿が、今日のクリスチャンたちにありうる様子であることを私たちは忘れてはいけません。

使徒パウロは、外見に陥って生きる者を指して「律法に頼って」と言われています。このような姿が道徳的な人間が落ちる第三の部類の人々なのです。今日、一緒に読んだ本文は、律法に頼って生きていく、外見だけ見て生きる律法主義者が重点を置いて生活する様子、5つを私たちに紹介しています。

もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法にえられてわきまえ、また、知識と理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の師だと自任しているのなら 

(ローマ人への手紙 2:17-19)

第一は、「律法を持つことに安んじ」生きます。第二は、「神を誇り」生きます。第三は、「みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法にえられて」生きます。第四は、「 極めて善いこと分別し」生きます。第五は、「 盲人の案人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の師だと自任し」生きます。

このように、ユダヤ人たちは、律法を頼りにし、律法を受け、律法を持つ人々です。

うわべで見ると完璧な神の人の姿です。どんな咎もない人のように見えます。しかし、彼らの外見を剥がし、その内面に何が入っているのかを見てみました。その内面にはどのようなものがあるのか、次のように述べています。

どうして、人をえながら、自分自身をえないのですか。むなときながら、自分はむのですか。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている」と書いてあるとおりです。

(ローマ人への手紙2:21-24)

 パウロは、ユダヤ人たちは、律法を頼り、律法を受けており、常に神のみ言葉を語る人たちなのに、うわべには完璧な神の人の姿なのに、実際その内面はどうなのか説明しています。

第一は、「人をえながら、自分自身をえない者」であること。第二は、「むなときながら、自分は者」であること。第三には、「姦淫するなと言いながら、自分は姦淫する者」であること。第四は、「偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめる者」であること。第五は、「律法を誇りとしていながら律法に違反して、神を侮異邦人の中でけがされている者」であったことです。

表面上は、神の人のように行動していましたが、実際には、神の栄光を覆って、神を冒涜している生活をしていたということです。パウロが私たちクリスチャンに結論として伝えている言葉は心に、イエス・キリストの真理を満たす人だけが真に神に仕える人であるということです。それで自分の中に、イエス・キリストがおられない人、自分の中に聖霊が宿っていない人は、律法主義者になれるしかないのです。

私たちが救われたキリスト者ならば肉体の生活に重点を置く生活だけで生きてはなりません。その肉体を聖く区別して、私たちの内なる人、つまり神の御霊を心に完全にうけとめる者にならなければなりません。それで心とうわべが一つになって行くのでしょう。特に心がうわべ、すなわち生活の様子を決定するので、心をより丈夫にする必要があります。常に心に命である主をうけとめ、すべての考えと行いに主の御霊を働かせ、より主に似て、主に栄光を捧げ、主の御心が成し遂げられる人生になるべきでしょう。そうでなければうわべの華やかな律法主義者になって、すべてのものはむなしく、偽りの者になり、神の裁きのみ前に立つのでしょう。

 言葉1ことば 1いきる」ロゴスライフ教会

[2018.05.28] 도덕적인 인간의 두 번째 부류-양심(10)(로마서 2:12-16) 장원규목사

도덕적인 인간의 두 번째 부류-양심(10)

 

오늘 본문인 로마서2장12-16절 말씀은 도덕적 인간 중 두 번째 부류에 대해 이야기하고 있습니다. 바로 양심주의자입니다. 인간의 양심으로 모든 의와 선을 완벽하게 이룰 수 있다고 믿는 사람들을 말합니다.

사도바울은 디모데 전서를 통해 “선한 양심”, “착한 양심”, “깨끗한 양심”을 강조하고 있습니다. 바울은 왜 양심 앞에 수식어로 ‘선한’, ‘착한’, ‘깨끗한’을 붙인 것일까요? 그 이유는 인간이 죄를 지은 이후 인간의 양심 자체가 오염되었기 때문입니다. 하나님의 도우심 없이 인간 스스로 양심을 정화하고 회복시키기는 불가능하기 때문입니다. 웅덩이에 고여 있는 썩은 물은 스스로는 정화할 수 없듯이 죄에 의해 타락한 인간의 양심도 이와 같습니다. 스스로 완전하게 회복될 수 없기에 하나님의 도우심이 필요한 것입니다. 이것이 양심에 대한 성경의 인식입니다. 이 인식을 바탕으로 성경은 양심주의자를 두 부류로 나누어 말씀합니다.

첫째는 하나님의 법을 모르거나 무시하는 양심주의자입니다.

그런 부류의 양심주의자들에 대해 로마서2장12절은 이렇게 말씀하고 있습니다.

“무릇 율법 없이 범죄한 자는 또한 율법 없이 망하고”

하나님의 법이 전해지지 않았기 때문에 모르든지, 아니면 의도적으로 하나님의 법을 무시하든지 간에 하나님의 법 없이 자기 양심만으로 의를 이루며 살아갈 수 있다고 생각하는 사람입니다. 사람들은 법이 없으면 죄가 없습니다. 정확하게 말하면 법이 없는 곳에 죄가 없는 것이 아니라 죄에 대한 인식이 없을 뿐입니다. 즉 죄에 대해 인식하지 못할 뿐이지, 죄는 죄로 그대로 남아 있는 것입니다. 그래서 하나님의 법, 하나님의 잣대 없이 우리의 양심대로 살면 반드시 망하는 것 즉 죽은 것임을 성경은 분명하게 말씀하고 있습니다.

둘째는 하나님의 법을 가진 양심주의자입니다.

“무릇 율법이 있고 범죄한 자는 율법으로 말미암아 심판을 받으리라.”(롬2:12후)

양심주의자의 두 번째 부류의 사람은 하나님의 법을 가지고 있습니다. 그런데 문제는 이런 부류의 사람들의 특징은 하나님의 은혜 없이 자기 양심만으로 하나님의 법을 구현할 수 있다고 믿는 사람입니다. 즉 자기 힘, 자기 공로로 하나님의 말씀을 다 지킬 수 있다고 믿는 사람입니다. 과연 그럴 수 있습니까? 그럴 수 없습니다. 하나님의 도우심 없이는 하나님의 법을 ‘상대적으로’ 지킬 수밖에 없기 때문입니다. 이런 사람은 하나님 명령을 10%밖에 못 지키고 있는데 자신은 잘 지킨다고 생각하고 있습니다. 자기만족, 자기 착각에 빠져 있는 것입니다. 자신이 드러내는 의는 상대적인 것인데도 그것이 절대적이 의라고 생각하는 것입니다. 그리고 스스로를 의인이라 착각하고 있다가 결국 심판을 당하고 맙니다. 우리는 하나님께서 요구하시는 행함이 상대적인 것이 아닌 절대적인 것임을 알아야 합니다.

그렇다면 우리가 해야 할 일은 무엇입니까?

“그러므로 사람이 의롭다 하심을 얻는 것은 율법의 행위에 있지 않고 믿음으로 되는 줄 우리가 인정하노라.”(롬3:28)

인간은 죽었다 깨어나도 율법을 다 지켜 온전해 질 수가 없습니다. 그럼 우리는 의로운 자가 될 수 없는 것입니다. 의로운 자가 될 수 없다면 의로우신 하나님 앞으로 나아갈 수 없고 하나님과 함께 할 수 없는 인생이 되고 그런 인생은 다 심판 아래 놓이게 됩니다. 그러니 우리는 율법을 다 지킬 수 없는 죄인인데 영생의 삶을 불가능한 것입니다. 우리에게 도저히 그 어떤 가능성을 찾을 수 없는 멸망자 인생일 뿐입니다. 그런데 의로우신 하나님께서 우리에게도 하나님께 인정받을 수 있는 의의 길을 열어 주신 것입니다. 그것이 바로 하나님의 의이신 예수 그리스도를 믿으면 누구나 할 것 없이 ‘다 의롭다’라고 여겨주시겠다는 말씀인 것입니다. 이 약속은 너무나 감격적인 말씀인 것입니다. 그러니 우리의 부족한 의를 주님께서 다 채워 주신다는 사실을 정말 깨닫는다면 이 사실을 정말 믿는다면 지금 우리가 어떤 삶을 살아갈 수 있겠습니까? 그런 주님께 감사하면 기쁨과 순종의 삶 외에는 다른 삶이 있을 수 없는 것입니다. 그래서 사도바울이 이런 말씀을 하셨던 것입니다.

“항상 기뻐하라 쉬지 말고 기도하라 범사에 감사하라 이것이 그리스도 예수 안에서 너희를 향하신 하나님의 뜻이니라.”(살전5:16-18)

성도 여러분 마음속에 기쁨이 있으십니까? 감사가 있으십니까? 기쁨과 감사는 사라진지 오래고 혹시 답답하고 무미건조하며 무거운 부담만 있는 것은 아닙니까? 하나님은 우리들에게 항상 기뻐하고 늘 감사하며 행복하게 살라시는데 과연 여러분들은 요즘 행복하십니까?

만일 그렇지 못하다면 그 이유가 어디에 있다고 생각하십니까? 세상이 점점 살기가 힘들어지고 어려워지기 때문일까요? 많은 사람들은 그렇게 생각하지만 정말 세상이 점점 살기 힘들고 어려워져서 우리가 기쁨과 감사를 잃고 살아가고 있는 것일까요? 세상이 좀 나아지면 기뻐하고 감사하며 살 수 있게 될까요? 행복해 질 수 있을까요? 그렇지 않습니다.

사람들은 세상이 바뀌어야만 기뻐하며, 감사하며, 행복하게 살 수 있을 것이라고 생각하지만 그렇지 않습니다. 세상이 바뀌어야 하는 것이 아니라 내가 바뀌어야만 합니다. 세상에 문제가 있는 것이 아니라 나 자신에게 문제가 있는 것입니다.

오늘 이 말씀을 들으면서 하나님이 내게 베풀어 주신 모든 은혜를 계수해 보도록 합시다. 그리고 넘치는 감사를 가지고 한 주간 힘 있게 사시고 다음주 하나님 전으로 나아와 하나님이 가장 기뻐하시는 감사로 제사를 드리는 저와 여러분들이 다 되실 수 있기를 바랍니다.

말씀과 삶이 어우러지는 로고스라이프 교회

 

道徳的な人の特徴―良心(10) 

本日の本文、ローマ人への手紙2章12-16節のみ言葉は、道徳的な人の二つ目の特徴について話しています。所謂良心主義者のことです。人の良心ですべての義と善に完璧に至ることができるのだと信じている人たちです。

使徒パウロはテモテへの手紙を通して、“正しい良心”、“善い良心”、“きよい良心”と強調しています。パウロは何故、良心の前に修飾語として‘正しい’、‘善い’、‘きよい’をつけたのでしょうか。その理由は人が罪を犯してからは人間の良心そのものが汚染されてしまったからです。主の助けがなくては人間自ら良心を浄化して回復させるのは不可能だからです。水溜りの腐った水が自然に浄化されないように罪によって堕落した人間の良心もそうです。自ら完全に回復できないため、主の助けが必要なのです。これが、良心に対する聖書の認識です。この認識のもとに聖書は良心主義者を二つに分けて言います。

一つ目は、主の法を知らない若しくは無視する良心主義者です。

このような良心主義者に対してローマ人への手紙2章12節はこう言われています。“律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、”

主の法が伝わらなかったがために知らない場合であれ、意図的に主の法を無視してしまう場合であれ、主の法なしに自分の良心をもって正しく生きぬけると思っている人たちです。法のないところに、人に罪をあてがう術はありません。正確に言えば、法が無い所には罪がないというより、罪に対する認識がないといえます。すなわち、罪を認識できないだけで、罪はそのまま残っているということです。ですから、主の法、主の基準なしに良心のままに生きると必ず滅びる、つまりは死ぬのだと聖書では明らかに言われています。

二つ目は、主の法を持っている良心主義者です。

“律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。”(ローマ人への手紙2:12後)

良心主義者の二つ目の部類の人は、主の法を持っています。ところが、問題はこのような部類の人の特徴は主の恵みなしに自分の良心だけで主の法を成し遂げることができるのだと信じている人です。即ち、自分の力、自分の働きで主のみ言葉をすべて守れるのだと信じている人です。本当にそうなのでしょうか。それは、ありえません。主の助けがないと、主の法は‘相対的に’守るようになるからです。このような人は主の命令を実際は10%従っているのに自分はよく従っているのだと思ってしまうのです。自己満足、錯覚に陥っているのです。自分が現す義は相対的にすぎないのに、それが絶対的な義だと思うことです。そして、自分自身を義人だと勘違いしてしまい、結局は裁かれます。主がおっしゃる行いは相対的ではなく絶対的なことであることを知るのが大切です。

では、私たちは何をすればいいのでしょうか。

“人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。”(ローマ人への手紙3:28)

人間は決して律法を完全に守って義に至ることはできません。では、私たちは義になる者になれないのでしょうか。義になる者になれないと義である主の御前に行けないし、主と共に歩めなくなりますし、そのような人生は裁きに至ってしまいます。律法を完全に守れない罪人で永遠なるいのちを得るのは不可能です。  私たちは到底どのような可能性も生み出せない滅亡者の人生なのです。ところが、義である主が主に認められる義の道を開いて下さったのです。それが、主の義であるイエス・キリストを信じれば誰でも“義である”と認めて下さるというみ言葉です。この約束は真に感極まりないみことばではないでしょうか。ですから、私たちの至らぬ義を主が全て満たして下さるということを本当に悟って本当に信じるなら、今どのように生きるのでしょうか。ただ主に感謝し、喜んで聞き従うのではないでしょうか。だからこそ、使徒パウロはこのように言ったのです。

   “いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。”(Ⅰテサロニケ人への手紙5:16-18)

皆様、この時分、喜びはございますか。感謝はおありですか。喜びと感謝はなくなり、ともすると、苦しくて枯れてしまってただ重荷だけが残っているのではないでしょうか。主はいつも喜んで、すべての事に感謝し、幸せであるようにおっしゃるのですが、皆様はいかがでしょうか。幸せでしょうか。

もしそうではないなら、どうしてだと思われますか。世で生きるのが段々厳しくなっているからでしょうか。多くの人たちがそう言いますが、本当に世の中が厳しくて喜びと感謝をなくしてしまったのでしょうか。世の中の状況がすこし生きやすくなったら喜んで感謝しながら生きることができるのでしょうか。幸せになるのでしょうか。そうではありません。世が変わらないと喜び、感謝し、幸せに生きることはできないと思いがちですが、そうではありません。世か変わるのはなく、私が変わるのです。世に問題があるのではなく、自分に問題があるのです。

本日、み言葉を聞きながら、主に与えられたすべての恵みを数えてみましょう。そして、溢れんばかりの喜びをもって一週間力ある生活を営み、来週主の宮に来て、主が最も喜ばれる感謝をもって礼拝を捧げる私自身と皆様となりますようにお祈りいたします。

み 言葉1ことばに 1いきる」ロゴスライフ教会

 

[2018.05.20] 경건의 능력으로 살고 있습니까?(디모데후서 3:1-5) 장원규목사

경건의 능력으로 살고 있습니까?

말세의 특징을 설명하면서 등장하는 단어가‘고통’입니다. 왜 말세가 고통으로 설명 되어질까요? 결론부터 말하면 경건의 모양은 있으나 경건의 능력이 없기 때문입니다. 하나님은 우리를 사랑하셨습니다. 그 사랑의 확증이 바로 예수 그리스도입니다. 그런데 하나님을 믿는 우리는 어떠한가요? 우리가 하나님을 믿는다면 경건의 능력이 있어야 합니다. 그렇다면 오늘 사도바울이 지적하는 경건의 모양만 있는 삶은 어떤 삶일까요?  자기 사랑입니다. 자기 사랑이란 자신이 주인이 되는 것입니다. 성경에‘자기를 위해’라는 표현을 사용할 때는 좋은 뜻으로 사용한 적이 거의 없습니다. 자기 사랑의 대표적인 행위가 우상숭배였습니다.

“내가 본즉 너희가 너희의 하나님 여호와께 범죄하여 자기를 위하여 송아지를 부어 만들어서 여호와께서 명령하신 도를 빨리 떠났기로”(신명기 9:16)

“또 그들이 자기들을 위하여 송아지를 부어 만들고 이르기를 이는 곧 너희를 인도하여 애굽에서 나오게 한 신이라 하여 하나님을 크게 모독하였사오나”(느헤미야 9:18)

분명 하나님은 자기를 위하여 우상을 만들지 말라고 하셨습니다.

“너는 자기를 위하여 새긴 우상을 만들지 말고 위로 하늘에 있는 것이나 아래로 땅에 있는 것이나 땅밑 물 속에 있는 것의 어떤 형상도 만들지 말며”(신명기 5:8)

그런데 자기를 사랑하면 자기에게 집중하게 되고 자기를 위해서 무엇을 하면 좋을까 하면서 하는 첫 번째가 우상을 만드는 일입니다. 하나님이 그의 백성에게 요구하신 것은 하나님을 사랑하는 것입니다. 하나님 사랑은 마음을 다하고 뜻을 다하여 하나님을 섬기는 것이라고 했습니다. 그런데 말세에 사람들은 자기를 사랑하고 돈을 사랑하고 자랑하며 교만합니다. 이기적인 이 모습은 자기 사랑으로 함축됩니다. 자기 사랑은 공동체를 손상시키는 죄들로 이어지는데 ‘비방하며 부모를 거역하며 감사하지 아니하며 거룩하지 아니하며, 무정하며 원통함을 풀지 아니하며 모함하며 절제하지 못하며 사나우며 선한 것을 좋아하지 아니하며 배신하며 조급하며 자만하며’입니다.

하나님을 사랑해야 할 존재가 자기를 사랑하면 결국 하나님이 사랑하라고 주신 이웃들과도 사랑하지 못하는 모습으로 이어집니다. 여기서 끝나지 않고 ‘쾌락을 하나님보다 사랑하는 것’입니다. 결국 자기 사랑은 하나님보다 다른 것을 더 사랑하는 것입니다.

이 모든 것이 경건의 모양은 있으나 경건의 능력은 부인하는 자들의 모습인 것입니다. 경건의 모양은 있으나 능력이 없는 이스라엘 백성을 향해서 경고하신 말씀이 말라기 1장에 있습니다. 하나님은 더러운 떡을 드리면서, 눈 먼 희생 제물을 바치면서 그것이 악하다고 생각하지 아니하는 백성을 향하여 헛된 제사를 하지 못하게 성전 문을 닫을 자가 있었으면 좋겠다고 하시며 그 제사를 받지 않으시겠다고 하셨습니다. 참 무서운 말씀입니다. 이것이 단지 이스라엘 백성만의 모습일까요? 지금 이 말씀을 읽고 있는 우리에게도 말씀하십니다. 경건의 모양은 있지만 능력은 부인하는 자는 복음에 대한 바른 믿음이 없는 자입니다. 그리스도의 구원의 능력에 대한 믿음이 없는 자입니다. 내가 이렇게 살고 있다면 그런 삶에서 떠나야 합니다. 하나님을 믿으면서, 입으로는 그리스도인이라고 하면서 하나님보다 자기를 사랑하여 결국 경건의 모양만으로 살고 있다면 우리는 이제 경건의 능력을 회복해야 합니다.

여러분의 삶은 어떠십니까? 경건의 모양과 함께 경건의 능력이 드러나고 있습니까? 우리는 어떻게 경건의 능력을 얻을 수 있을까요?

첫째는 하나님의 말씀으로 얻을 수 있습니다.

“모든 성경은 하나님의 감동으로 된 것으로 교훈과 책망과 바르게 함과 의로 교육하기에 유익하니 이는 하나님의 사람으로 온전하게 하며 모든 선한 일을 행할 능력을 갖추게 하려 함이라. (디모데후서 3:16). 하나님의 말씀이 우리에게 능력을 주십니다.

敬虔の力で生きていますか 

世の終わりの時の特徴を説明する際出てくる単語が「苦痛」です。なぜ、世の終わりが苦痛で説明されるでしょうか。結論から言うと敬虔の形はあるが、敬虔の能力が無いからです。主は我々を愛されました。その愛の印がまさにイエスキリストです。しかし、主を信じる我々はどうでしょうか。私たちが主を信じるならば敬虔の能力があるはずです。今日の御言葉の使徒パウロが指摘している敬虔の形だけある人生はどんな人生でしょうか。

自己愛です。自己愛とは自分が自分の主人になることです。聖書に‘自分の為’と記載された内容で良い意味で使われた事はほとんどありません。自己愛の代表的な行為が偶像崇拝です。

“私が見ると、見よ、あなたがたはあなたがたの神、【主】に罪を犯して、自分たちのために鋳物の子牛を造り、【主】があなたがたに命じられた道から早くもそれてしまっていた。”(申命記9:16)

“彼らが自分たちのために、一つの鋳物の子牛を造り、『これがあなたをエジプトから導き上ったあなたの神だ』と言って、ひどい侮辱を加えたときでさえ、”(ネヘミヤ記9:18)

  確実的に主は自分のため偶像を作らないよう言いました。

“あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。”(申命記5:8)

しかし、自分を愛すると自分に集中することになり、自分のために何をすれば良いかを考える初めの事が偶像を作ることです。主が主の民に命じたのは主を愛することです。主に対する愛は心を尽くして、まことを尽くして主におのれを捧げる事だと記載されています。しかし、世の終わりの時の人たちは自分を愛し、お金を愛し、自慢し、傲慢に陥ります。利己的なこの姿は自己愛で現れます。自己愛は共同体を崩す罪人になりますが“不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者”等です。

主を愛すべき存在が自分を愛すると結局主が愛し合いなさいと言われた隣人とも愛する事が出来ない姿を見せます。これで終わらず“快楽を主より愛する事”になります。つまり、自己愛は主より他をもっと愛する事です。

この全てが敬虔の姿はあるが、敬虔の能力を認めない者たちの姿です。敬虔の姿だけあり、能力が無かったイスラエルの民に対して警告した御言葉がマラキ書1章に記載されています。主は汚れたパンを捧げながら、盲目の獣をいけにえにささげながらそれが悪いと思わない民に対して、“あなたがたがわたしの祭壇に、いたずらに火を点ずることがないように、戸を閉じる人は、だれかいないのか。わたしは、あなたがたを喜ばない”とおっしゃいました。恐ろしい御言葉です。これがただイスラエルの民だけの姿でしょうか。

今、この御言葉の前にいる私たちにおっしゃいます。敬虔の姿はあるが、能力を認めない者は福音に対して正しい信仰を持っていない者です。キリストの救いの能力を信じない者です。私が、貴方がこの姿をしているのであればその姿から離れるべきです。主と信じながら、言葉ではキリスト者だと言いながら主より自分を愛し、結局敬虔の姿だけで生きているのであれば、私たちは今、敬虔の能力を回復すべきです。皆さまの人生はどうでしょうか。敬虔の姿と共に能力がありますか。私たちはどうすれば敬虔の能力を得る事が出来ますでしょうか。

一つ目、主の御言葉から得る事が出来ます。

 “聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。(テモテ第二3:16)  主の御言葉が私たちに力を下さいます。

二つ目、祈りです。

敬虔の姿はあるが能力が無かった人々のたとえ話をイエスがマルコの福音書を通して教えて下しました。マルコの福音書9章は霊に取りつかれた息子をイエスが治した事が記載されています。霊に取りつかれた息子を父親が連れて来た時、弟子たちは治せませんでした。結局イエスに連れて来て治されました。その後、弟子たちが聞きます。“どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが。”主が答えます。“この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。”하主を信じながら、しかし祈らないのであれば敬虔の姿があるが能力が無い人生を生きるしかありません。

  海に住んでいる魚が生きているうちにはしょっぱくありませんが、不思議に死んだ魚に塩をかけるとしょっぱくなります。これを私たちの霊的状態に適応して見ると姿を持っていれば能力もただで着くものでは無いことを分かります。たまには敬虔の姿で私たちは間違って思うかもしれません。しかし、主は確実的におっしゃっています。“こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。”(マタイの福音書7:20-21)

   実で分かると言います。私たちは今、敬虔の姿でここに座っています。これで満足するのではなく敬虔の能力がある人生に向かって歩みましょう。御言葉と祈り無しでは主に歩むことは出来ません。主の能力を得ることも出来ません。

“神の国はことばにはなく、力にあるのです。”(コリント第一4:20)

み 言葉1ことばに 1いきる」ロゴスライフ教会

 

[2018.05.13] 도덕적인 사람의 특징-판단(9) (로마서2:1-5) 장원규목사

도덕적인 사람의 특징-판단(9)

인간을 분류할 때 크게 두 종류의 볼 수 있습니다. 하나는 형이하학적인 인간입니다. 이런 사람들의 특징은 본능적으로 살아가는 사람들을 말할 수 있습니다. 정욕을 따라 살고, 감정에 충실하게 반응하며 사는 사람들입니다. 로마서 1장에서 말씀을 드렸던 부류의 사람들이었습니다. 또 한 종류의 사람은 형이상학적인 인간입니다. 이런 유형의 사람은 철학적인 사고가 중심으로 살아갑니다. 성경은 이런 사람을 도덕적인 인간이라고 부릅니다.

로마서2장은 바로 도덕적인 인간에 초점을 맞추어 말씀을 하고 있습니다. 도덕적인 인간에 속한 사람들은 크게 세 가지의 특징들을 들어내고 있습니다. 로마서 2장은 이 부분을 중심으로 말씀하고 있습니다. 저는 세 번의 걸쳐 이 부분에 대해 자세히 말씀을 전하려고 합니다. 이 부분에 대해 세 번에 걸쳐 말씀을 전하려고 하는 이유는 사람은 나름 도덕적인 기준을 가지고 살아가는데 그 기준이 온전한 신앙을 형성하는데 부정적인 영향을 미칩니다. 모든 그리스도인들에게 이 문제는 자유로울 수 없습니다. 로마서는 이 부분을 통해 우리 각자의 신앙의 현실이 어떠한지를 볼 수 있도록 하고 있습니다. 많은 그리스도인들이 자신의 신앙의 실상을 잘 모르고 살아가는 경우가 많습니다. 그렇게 살다가 마지막 순간까지 돌이킬 수 없는 심각한 결과에 이룰 수 있기 때문입니다.

오늘 본문 말씀은 도덕적인 사람들에게 들어 나는 첫 번째 특징에 대해 말씀합니다.

“그러므로 남을 판단하는 사람아, 누구를 막론하고 네가 핑계하지 못할 것은 남을 판단하는 것으로 네가 너를 정죄함이니 판단하는 네가 같은 일을 행함이니라.”(롬2:1)

도덕적인 사람의 첫 번째 특징은 ‘남을 판단하는 것’입니다.

1절에서 말하고 있는 ‘판단’은 간단한 판단을 말하는 것이 아닌 남을 정죄 혹은 심판을 의미할 때 사용하는 단어입니다.

그리스도인들이 바른 믿음에 서 있지 않으면 이와 같이 타락한 도덕주의자가 되기 십상이라는 것을 잊지 말아야 합니다. 성경적 지식으로만 무장하면 그 말씀이 살아서 우리를 지배하지 못합니다. 오히려 지식의 말씀을 도덕적 잣대로 삼아 남을 판단하여 정죄하고 심판하기가 쉽습니다. 만약 우리도 이중적인 잣대를 가진 타락한 도덕주의자가 된다면 어떤 결과에 이루게 되는지에 대해 성경은 이렇게 말씀합니다.

“그러므로 남을 판단하는 사람아, 누구를 막론하고 네가 핑계하지 못할 것은 남을 판단하는 것으로 네가 너를 정죄함이니 판단하는 네가 같은 일을 행함이니라.(롬2:1)

무슨 말씀입니까? 자신도 여러 문제들을 들어내면서 자신은 접어 두고 남만 정죄하고 판단한다면 그것은 다름 아닌 바로 자신을 정죄하는 것이라는 의미입니다. 이런 일을 행하는 자에게 성경은 이어서 이렇게 말씀하고 있습니다.

“이런 일을 행하는 자에게 하나님의 심판이 진리대로 되는 줄 우리가 아노라”(롬2:2)

여기에서 “심판”은 헬라어로 ‘크리마’라고 하는데 그 의미는 ‘취소불가’입니다. 무슨 말인가 하면 ‘내가 남을 험담하고 판단하는 것은 언제든지 취소할 수 있지만 남을 판단하는 너에 대한 하나님의 심판은 취소불가’라는 것입니다. 우리는 바로 이 점을 잘 기억해야 합니다. 또 “진리대로”라는 말은 하나님의 심판이 “반드시”임한다는 의미입니다.

하나님께서 이렇게 판단과 정죄하는 일을 대단히 싫어하실 뿐만 아니라 판단하고 정죄하는 사람들은 하나님의 심판을 절대로 피할 수 없다는 것을 명심해야 합니다. 그 이유가 무엇일까요? 판단하고 정죄하는 일은 하나님 앞에서 월권행위이기 때문입니다. 피조물인 인간이 다른 인간에게 판단하고 정죄할 수 없습니다. 왜냐하면 모든 인간은 다 똑같은 죄인이기 때문입니다. 판단과 정죄와 심판은 오직 창조주 하나님만의 영역이기 때문입니다. 성경 어느 곳에도 인간에게 다른 사람을 심판할 권한을 주신 일이 없습니다. 즉 인간이 판단하고 정죄한다면 그 행위는 곧 스스로 하나님이 되고 마는 것입니다. 인간의 죄의 시작이 여기서부터 시작되었다는 것을 우리는 다 잘 알고 있습니다. 인간이 결코 넘어서는 안 되는 선이 바로 창조주와 피조물의 경계입니다.

그렇다면 지금 하나님은 우리에게 무엇을 말씀하시길 원하시는 것일까요? 주님 앞에서 자신을 깊이 성찰해 보라는 것입니다. 나 역시 잘못을 범하고 있음에도 나와 똑같은 잘못을 행하는 사람을 정죄하고 심판하고 있지는 않은지? 이 시간, 남의 눈의 티는 보면서 내 눈 속에 있는 들보를 보지 못하고 있는 것은 아닌지? 말입니다. 그런 사실이 있다면 지금 나의 들보를 뺀 다음에는 티끌이 있는 형제를 긍휼히 여기며 사랑으로 권면하는 것입니다.

교회는 5월을 가정의 달로 지킵니다. 우리의 모든 가정이 행복해야 합니다. 그러기 위해선 부부관계와 부모와 자녀관계가 바른 관계 속에 있어야 합니다. 혹시 가정이 평안이 없고 기쁨이 없다면 가정에 안에 이루어져야 할 부부와 부모와 자식 간에 사랑의 관계 깨어져 있기 때문일 것입니다. 사랑의 관계를 깨고 있는 것 중 하나 서로를 판단하고 정죄하기 때문입니다. 사랑이라는 미명아래 혹시 남편은 아내에게, 아내는 남편을 향해 판단과 정죄를 행하고 있는 것은 아닌지 살펴보시기 바랍니다. 부모는 부모의 기준을 가지고 자식에게 일방적으로 판단과 정죄의 말을 쏟아 붓고 있는 것은 아닌 꼭 살펴보아야 합니다. 그런 관계에 있었다면 우리 마음을 겸손히 낮추고 서로에게 용서를 구합시다. 그리고 이렇게 한 마디의 말을 합시다. “그 동안 당신을 내 기준으로 판단했네. 미안해!” 그리스도의 사랑으로 넘치는 가정이 되어 행복한 에덴동산이 되길 축원합니다.

 

말씀과 삶이 어우러지는 로고스라이프 교회      

 

道徳的な人の特徴―裁き(9) 

人々を分類するときに大きく二つに分けることができると思います。一つは形而下学的な人々です。このような人々の特徴は本能的に生きていく人々、ということができます。情欲に従い、感情に忠実に反応し生きていく人々です。ローマ人への手紙一章でお話しした部類の人々です。もう片方は形而上学的な人々です。この類型の人々は哲学的な思考を中心に生きていきます。聖書はこのような人々を道徳的な人々と呼びます。

ローマ人への手紙第二章はまさにこの道徳的な人々に焦点を当てた話をしています。道徳的な人間に属している人々は大きく三つの特徴を持っています。ローマ人への手紙第二章はこの部分を中心に語っています。私は三回にわたってこの点について詳細にメッセージをお伝えしようと思います。この部分について三回にもわたってお話を差し上げようとするわけは、人々は自分なりの道徳的基準を持って生きていますが、その基準が健全な信仰の形成に否定的な影響を及ぼすためです。クリスチャンは皆この問題から離れることができません。ローマ人への手紙はこの部分を通じて私たち各自の信仰の現実がどのようであるか映してくれています。多くのクリスチャンが自らの信仰の実状をよく知らずに生きていることがあります。そのように生きていると最期の時にまで覆せない深刻な結果をもたらすかもしれません。

今日の本文の御言葉は道徳的な人々に対してその特徴を語っています。

「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。」(ローマ人への手紙2:1)

道徳的な人の一つ目の特徴は‘人を裁く’ことです。 1節で話している“裁き”は簡単な判断ではなく、他人の罪を定めること、もしくは審判を意味するときに使う言葉です。クリスチャンは正しい信仰の上に立っていないと、このように容易く堕落した道徳主義者になり得るということを忘れてはいけません。聖書の知識だけで武装するとその御言葉が生きて私たちを統べることができないのです。むしろ知識による御言葉を道徳的基準として振りかざし、他人を裁き、罪ある者とし、審判することになります。もし私たちが二重の基準を持つ堕落した道徳主義者になるのなら、どのような結果にたどり着くか、聖書はこのように語っています。

「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。」 (ローマ人への手紙2:1)

これはどのような意味なのでしょうか。自分も様々な問題を抱えながらも、自分のことは差し置き、他人ばかりを非難し、罪ある者と定めるならば、それはまさに自分に対する罪の定めであるという意味です。このようなことを行う者に聖書は続いて次のように語っています。

「私たちは、そのようなことを行っている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。」(ローマ人への手紙2:2)

ここにおける“裁き”とはヘブライ語で“クリマ”といいますが、その意味は“取り消し不可”という意味です。どのような意味かといいますと、‘私が他人を非難し判断するのはいつでも取り消すことができるが、他人を裁こうとするあなたに対する神様の裁きは取り消すことができない’という意味です。私たちをこの点を常に覚えておく必要があります。また“正しい”ということは、神様の審判が“必ず”下されるという意味です。

神様はこのように他人に対する裁きと罪の定めをとても嫌うだけでなく、その行いをする人々は、神様の裁きを免れることができないということを命じなければなりません。その理由は何でしょうか。他人を裁き、罪を定めることが神様の御前において越権行為であるためです。被造物である人間が他の人々を判断し、罪を定めることはできません。なぜなら私たち人間は皆等しく罪びとであるためです。裁きと罪の定めと審判はただ創造主である神様お一人の領域であるためです。聖書どの個所にも人間に対して他人を裁く権利を下さったことはありません。つまり人間が判断し罪を定めようとするならば、その行為はすなわち自らが神となることです。人間の罪の始まりがここからであったことを私たちはよく知っています。人間が決して超えてはいけない線がまさに創造主と被造物の境界線です。

それでは今神様は私たちに何をお話されようとしているのでしょうか。主の御前で自分自身を深く省察してみなさいということです。ここで自分のことを省み、問いかけてみましょう。自分自身もまた罪を犯しているにも関わらず、自身と同じ過ちを犯している人々を裁き、審判してはいないか。今、他人のあら探しをしながらも自身にある欠点は見つけることができていないのではないか。そのような事実があるのなら、あらためて、今、自分自身にある梁を取り除き、ちりのある兄弟姉妹を憐れみ、愛をもって勧める道があるのです。

教会は5月を家庭の月として定めています。私たちすべての家庭が幸せでなければなりません。そのためには夫婦関係、そして親と子供の関係が正しい関係になければなりません。もし家庭に平安がなく、喜びがないのなら、家庭で成されるべき夫婦間、親と子供間の愛の関係が壊れているせいであるかもしれません。愛の関係を壊すものの中の一つがお互いを裁き、罪を定めることです。愛という名目の下、夫は妻に、妻は夫に対して裁きと罪の定め行為を行っていないか改めてみてください。親は親の基準を持って子供たちに一方的に判断と裁きの言葉を発していないか、ぜひ一度注意してみなければなりません。そのような関係にあったならば、おのれをへりくだらせ、心を低くしお互いに許しを求めましょう。そしてこのような言葉をかけてみましょう。“今まであなたを私の基準で裁いてしまってごめんなさい!”キリストの愛で満たされる家庭となり、幸せなエデンの園になることを心よりお祈りします。

「み言葉に生きる」ロゴスライフ教会

 

[2018.05.06] 십자가와 전인적 회복(이사야 53:5) 장원규목사

십자가와 전인적 회복

구약 성경에서 십자가를 통한 구원을 설명하는 구절 중에서 가장 잘 알려진 구절이 이사야 53장입니다. 이사야는 예수님이 이 땅에 오시기 약 700년 전에 활동하던 선지자였습니다. 하나님은 예수님이 이 땅에 오시기 700년 전에 이사야 선지자를 통하여 나중에 오실 예수께서 어떻게 십자가를 지심으로 우리를 구원하실 것인가에 관하여 구체적으로 선포케 하신 것입니다. 특별히 이사야 53장의 5절은 비록 한절이지만, 예수님의 십자가 사건을 가장 임팩트 있게 표현하고 있습니다. 그런데 이 구절은 세 가지 표현이 대구를 이루고 있습니다. 첫째, 예수님께서 ‘찔림’과 ‘상함’ 당하심으로 우리는 ‘허물’과 ‘죄악’에서 회복된다. 둘째, 예수님께서 ‘징계’ 받으심으로, 우리는 ‘평화’를 누린다. 셋째, 예수님께서 ‘채찍’에 맞으심으로, 우리는 ‘나음’을 받았다. 이를 간단하고 도표화 하면 이렇습니다.

저는 이 대목에서 “이사야 선지자는 왜 이렇게 십자가에 대해 구체적으로 묘사하고, 그로 말미암는 회복 역시 다각도로 표현했을까?”하는 궁금증을 가지고 깊게 고민하던 중에, 너무 중요한 것을 발견하게 되었습니다.

죄로 타락한 인간을 회복하시기 위한 하나님의 유일한 방법은 예수님의 십자가입니다. 그런데 인간이 죄로 타락하게 되었을 때, 영적으로뿐만 아니라, 전적인 타락이 있었습니다. 그렇기 때문에 예수님의 십자가는 인간의 영적인 회복뿐만 아니라 전인적인 회복을 주셔야 하며, 이사야 선지자는 이러한 전인적인 십자가의 회복을 표현하기 위해 다각도로 표현했다는 것입니다. 전인적인 회복이란 쉽게 말해서, 영적이고, 혼(마음)적이고, 육적으로 회복된다는 것을 의미합니다.

과연 하나님께서는 주전 약 700년 전의 사람이었던 이사야의 예언을 십자가 안에서 완벽하게 성취하셨습니다. 예언대로 예수님께서 완전하게 죽으셨지만, 역시 예언대로 우리는 완전하게, 전인적으로 회복할 수 있게 되었습니다. 바라기는 하나님께서 오늘 본문을 통해 미리 약속하신 말씀, 예수님을 통해 성취된 말씀을 믿고 날마다 십자가 앞에 나오는 여러분 되시기를 소망합니다. 그래서 삶의 전부가 회복되고, 매일 매일을 천국의 기쁨으로 사시는 여러분 되시기를 소망합니다.

마지막으로, 우리의 전인적인 회복, 구원은 오직 십자가에서만 가능함을 명심하시기 바랍니다. 하나님께서 타락한 인간을 회복하실 수 있는 방법으로 주신 유일한 길은 십자가 이외에 없습니다. 다른 은혜를 구하지 마십시오! 다른 어떠한 것으로 우리의 문제를 해결하려 하지 마십시오. 십자가가 안에 인간의 전인적인 구원의 방법이 담겨져 있습니다! 십자가에 관한 이사야의 예언은 오늘도 그 말씀을 믿고 의지하는 모든 사람들에게 전인적인 구원을 경험케 하시는 귀한 근거가 됩니다. 할렐루야! 십자가의 소망이 필요한 여러분께 주님의 평안을 전합니다.

 

十字架と全人的回復 

 

旧約聖書で十字架を通した救いを説明する句節の中で最もよく知られているのがイザヤ53章です。イザヤは、イエス様がこの地に来られる約700年前に活動していた預言者でした。神は、イエス様がこの地に来られる700年前に、このイザヤを通して、後に来られるイエス様がどのように十字架を負われ、私たちを救えるかについて具体的に宣言させたのです。特にイザヤ53章5節は、たった一節ですが、イエス様の十字架に対して最もインパクトある形で表現しています。

この句節には、三つの対句があります。まず第一、イエス様の「 刺し通し」と「砕き」によって、私たちは「罪」と「咎」から回復されます。第二、イエス様の「懲らしめ」により、我々は「平安」を受けられます。第三、イエス様の「打ち傷」によって、我々は「癒し」を受けられます。これを簡単に表にすると次のとおりです。

霊的

魂(心)的

肉的

十字架の描写

刺し通し, 砕き

懲らしめ

打ち傷

我々の回復

罪と咎から解放

平安

癒し

私はこの部分で、「預言者イザヤは、なぜこのように十字架について具体的に描写し、それによる回復も多角的に表現したのか」という疑問を持って深く悩んでいた時に、あまりにも重要なことを発見しました。

罪で堕落した人間を回復させるため、神の唯一の方法は、イエス様の十字架でした。ところで、人間が罪で堕落したとき、霊的だけでなく、全面的な堕落がありました。そのため、イエス様の十字架は、人間の霊的な回復だけでなく、全面的な回復が必要であり、預言者イザヤは、これらの完全なる十字架の回復を表現するために多角的に表現したということです。完全なる回復とは、簡単に言えば、霊的に、魂(心)的に、肉的に回復されることを意味します。

神は、紀元前約700年前の人であったイザヤの預言を十字架の中で完全に成し遂げられました。預言どおり、イエス様は完全に死なれましたが、やはり預言通り、私たちは完全に、全面的に回復されることができるようになりました。

どうか、皆さまが、神が今日の本文を通してあらかじめ約束されたみ言葉、イエス様を通して成し遂げられたみ言葉を信じて、日々十字架の前に出られる皆様になることを願います。それにより、人生のすべてが回復され、毎日が天国の喜びで生きる皆様になることを願います。

最後に、私たちの完全なる回復、救いはただ十字架だけで可能であることを肝に銘じてください。神が堕落した人間を回復させる方法で与えられた唯一の道は十字架以外にありません。他の恵みを求めないでください!他のどのようなもので、私たちの問題を解決しようとしないでください。十字架の中に人間の完全なる救いの方法が込められています!十字架に関するイザヤの預言は、今日もその言葉を信じて頼るすべての人々に完全なる救いを経験させられる貴重な根拠となります。ハレルヤ!十字架の望みが必要な皆様に主の平安を伝えます。

み 言葉1ことばに 1いきる」ロゴスライフ教会

[2017.1231] 우리가 본 받아야 할 것은 세상이 아닌 오직 예수입니다 見(み)つめ倣(なら)う方(かた)は主(しゅ)です

우리가 본 받아야 할 것은 세상이 아닌 오직 예수입니다

인생에는 길이 있습니다. 인생에도 길이 있다는 것은 곧 인생이 반드시 도달해야만 하는 목적지가 있다는 것을 의미합니다. 그래서 사람들은 인생이 도달해야 할 목적지를 찾고 그 목적지에 이르기 위한 길을 찾으려고 많은 수고와 노력을 기울이며 삽니다. 그런데 많은 사람들이 목숨을 건 수고를 하지만 인생의 목적지와 그 길을 찾지 못하고 방황하다가 마침내 허무한 인생으로 끝나는 경우가 많습니다. 많은 사람들이 인생의 목적지와 길을 찾기 위해 목숨을 건 수고가 있지만 찾지 못하는 이유는 인생의 목적지와 그 목적지에 이르는 길은 피조물인 인간이 찾을 수 있는 것이 아니라 인간을 만드신 분이 인생의 목적지와 그 목적지에 이를 수 있는 길을 알려주어야 찾을 수 있는 것입니다. 이 세상에서 자신이 인생의 길이라고 외치신 분이 계십니다. 그분이 누구십니까? ‘예수께서 이르시되 내가 곧 길이요’(요14:6)

예수님은 자신이 모든 인생의 길이 되신다고 말씀하셨습니다. 그리고 인생의 길인 자신을 통해 모든 인간들이 도달해야 하는 그 목적지가 어디인지 이렇게 말씀하셨습니다.

“나로 말미암지 않고는 아버지께로 올 자가 없느니라.(요14:6)

인생의 길 되신 예수님은 자신을 통해 모든 인간들이 도달해야만 하는 그 목적지가 바로 창조주 하나님임을 말씀하신 것입니다. 예수님께서 이 땅에 인간의 몸을 입고 오신 이유는 모든 인간을 구원하시기 위함입니다. 이 구원이 무엇입니까? 하나님을 떠나 불행하게 살던 인간이 하나님께로 돌아가는 것입니다. 하나님만이 인간을 지으신 분임을 믿고 오직 하나님 의 뜻과 목적을 이루는 삶을 사는 것입니다. 다시 말해서 하나님은 인생의 길로 예수 그리스도를 보내 주신 것은 곧 인생의 목적지인 하나님께 갈 수 있는 약도를 주신 것입니다.

그러나 우리는 대개 그 길을 따라 살지 않습니다. 우리는 예수님을 길이라고 말하지만 실제로 세상을 더 신뢰하여 세상이 말하는 그 길을 따라 사는 경우가 많습니다. 다만 예수님과 하나님은 그 세상 길을 통해 세상이 말하는 그 목적지에 남보다 더 빨리 도달하는데 수단 정도로 이용하는 것뿐입니다.

우리의 인생의 불행의 악순환은 눈이 보이지 않는 하나님과의 관계보단 눈에 보이는 물질의 소유가 더 매력적이고 더 행복을 가져다 준다고 착각에 빠지는데 있습니다. 그래서 우리는 인생의 대부분을 더 많이 소유하려는 온 힘을 다 쏟고 삽니다. 부자가 되고, 성공하고, 출세하는 것에 모든 힘을 집중하다 보니 정작 중요한 하나님과 온전한 관계로 연결시켜 주는 기도와 말씀묵상 그리고 예배에 시간을 드리는 것에는 인색해질 수밖에 없는 것입니다.

오늘 본문 말씀인 로마서12장2절의 핵심은 ‘이 세대를 본받지 말라’는 것입니다. 세대를 본받지 말라는 뜻은 세상 따라 살지 말고, 세상에 끌려 다니지 말고, 세상으로 목적 삼지 말라는 것입니다. 세상과 세대를 본받으면 정말 불행하게 됩니다. 절대로 잘 살 수 없고, 구원 얻을 수 없고, 천국에 갈 수도 없습니다.

우리는 하나님의 자녀로 2017년 한 해를 살았습니다. 어떠셨습니까? 하나님께서 정해주신 그 길과 방법을 따라 사셨습니까? 아니면 이 세대를 본받아 욕심과 세상의 방식으로 사셨습니까? 오늘 로마서12장2절에 핵심 키워드는 ‘변화’입니다. 우리는 생각을 바꾸고 사는 방식을 과감하게 바꾸라고 말씀합니다. 하나님께서 우리를 향하여 이 세대를 본받지 말고 변화라고 하시는 것은 ‘이제까지 목적으로 삼고 살던 것을 다 하나님께서 받으실 산 제물이 되게 하라.는 것입니다. 우리의 목적은 세상이 아니고 하나님 나라입니다. 돈이 아니고 하나님입니다. 우리의 뜻과 욕심이 아닌 하나님의 뜻과 의입니다. 그 동안 우리가 목적으로 삼고 살았던 세상의 모든 것은 하나님의 뜻과 목적을 위한 도구가 되어야만 합니다. 그렇게 된다면 우리가 목적으로 삼았던 세상의 모든 것도 선하고, 아름다운 것이 됩니다.

성도 여러분! 오늘은 2017년 마지막 주일예배이자 마지막 날이기도 합니다. 오늘 지나면 우리는 새해를 맞아 한 해를 살게 될 것입니다. 살아온 지난 인생에는 항상 후회가 남길 마련입니다. 그러나 하나님께서 한 해 이렇게 매듭을 짓게 하시는 중요한 이유는 지난 과거를 돌아보고 왜 후회만 남는 삶이었는지 돌이켜 회개하며 결단하고 새 출발하라는 것입니다. 어떻게 새로운 출발을 해야 하겠습니까? 우리 인생의 목적이자 길 되신 예수 그리스도를 믿는 믿음에 굳게 서는 것입니다. 우리가 죽을힘을 다해 한 해 달려가야 할 분은 예수 그리스도이십니다. 인생의 길 되신 예수님을 따라 사는 길만이 행복에 이르는 길이며, 구원에 이르는 길입니다. 세상을 바라보지 말고 예수님만을 삶의 길과 방식을 삼겠다는 결단이 있기 바랍니다. 왜냐하면 우리는 다 그리스도와 함께 십자가에 죽고 이제는 내 안에 사시는 분은 그리스도이시기 때문입니다. 이제 내가 육체 가운데 사는 목적도 그 목적지까지 이룰 수 있는 유일한 길도 나를 사랑하사 나를 위하여 자기 몸을 버리신 하나님의 아들이기 때문입니다. 이렇게 예수만을 인생의 목적과 인생의 길로 삼고, 예수가 삶의 모든 방식이 되는 삶이 될 때 하나님께서 받으실 만한 영적 예배를 드리는 인생으로 살아가게 될 것입니다. 우리의 인생이 이렇게 하나님께서 받으실 만한 예배자로 살아갈 때 하나님께서 지으신 목적을 따라 사는 참 행복한 인생이 되고 가치 있는 인생이 될 것입니다.

 

말씀과 삶이 어우러지는 로고스라이프 교회

 

見(み)つめ倣(なら)う方(かた)は主(しゅ)です

人生を道にたとえた時、そこには目的地があります。その目的地を定め、その目的地に至るために力と思いとが注がれます。いのちをかけてまで定め求めた先が何もないところであり、探しあぐねて終わってしまった先人の例を私たちは知っています。その理由を私たちは、人が探し出せる類のものではなく、その人をお造りになった方に尋ねてこそ見出すと告白します。イエスは言いました。イエス は彼に言われた.

「わたしが道であり…」(ヨハネによる福音書14章6節)

ご自身こそ人の道とされたイエスさまは、その道の目的地もまたご自身であるとおっしゃいました。

「わたしを通してでなければ, だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハネによる福音書14章6節)

イエスは人としてこられました。あらゆる人を救うためです。救いとは何かと問うならば、それは主より離れた人が主に立ち返ることです。主こそ人をお造りになった方、ただ主の心と目的にあって生きる道が本来であったのです。人の道の地図そのものがイエスなのです。そこには目的地も道も記されています。

しかし、得てして私たちはその道を知れど歩もうとしない悲しい性(さが)をもまた持っています。この世とは比類(ひるい)なき方イエスを告白しつつも、この世と比べてしまい、より信頼しようかしまいか迷うのです。イエスという道が、ある目的を達成するためのあるひとつの有用な何かとしてしますのです。この悪循環は、ある錯覚に起因しています。主との関係から、主と所有できる何かとを同じ線上においてしまうことです。そうしてどちらがより魅力的か、より幸福をもたらすかを見出そうとします。どちらが、より我を富ませ、成功をもたらし、出世街道を驀進させしめるかを問うのです。ここには祈りの不在とみことばにある黙想との不在がおのずと伴ってきます。人は、そのようにして実に吝嗇極まりない存在に陥ってしまいます。

 

 

ローマ人への手紙12章2節の中心には、「この世と調子を合わせてはいけません」があります。世にあわせて生きることなかれ、引きずられることなかれ、この世のどこかに目的地を定めるなかれ、です。そこには救いも天の御国もないのですから。

2017年一年間を振り返ります。主を見つめ歩まれたでしょうか。主とこの世とを比べ、そのものさしに己の何らかの方式や欲望が見えていたでしょうか。革新(かくしん)をキーワードとして捉えましょう。思考方式の革新です。後者の己の方式や思いを、主に捧ぐいけにえとしてしまえ、です。私たちが見つめる先には主の御国があります。銭ではなく主です。己の方式や思いにあって築いてきたものがあるのならば、それはむしろ主に捧ぐ道具と化し得ます。その実現の暁には実に美しいものが待っています。

信徒の皆さん、2017年最後の礼拝の時、新年を迎えますが、過ぎし道を思えば後ろ髪引かれることしばしの人生、しかれど前を向き新たに出発を切るときです。イエスキリストにある幸いなことよ. そのそむきを 赦され, 罪をおおわれた 人は信仰です。このスタート地点であり、道であり、目的地であるこの方にあって、死力を尽くして、ふたたび漕ぎ出します。私たちのすべてはキリスト共に十字架につけられたのですから。そして、その目的地を目指すもだたキリスト故なのです。その唯一無二の道をくださった父なる神の独り子をくださったのは、私たちを愛してくださっている故です。主へのこの霊的礼拝をささげ始める時、即ち、その道に価値が生まれるのです。

「み言葉(ことば)に生(い)きる」ロゴスライフ教会

 

 

 

[2017.1224] 하나님 아들의 오심은 세상을 살리기 위함입니다 主なる御子は世を救うために来られました

하나님 아들의 오심은 세상을 살리기 위함입니다

 

인류의 역사는 전쟁의 역사라고 해도 과언이 아닙니다. 그 전쟁은 인류를 죽음으로 몰아간 살상의 역사입니다. 사람을 죽음으로 몰고 가는 죽음의 세력은 단 한 번도 쉬지 않고 끝임 없이 전쟁과 굶주림과 질병 등으로 생명을 위협하고 있습니다. 본래 죽음은 인간이 피할 수 없는 운명이지만 요사이 인간의 죽음은 자연사보다 인간들의 탐욕에서 비롯된 전쟁, 테러, 살인 등으로 죽는 죽음이 온 세상을 덮고 있습니다. 인간의 탐욕에 의한 죽음이 난무하는 이런 세상에 생명의 번성을 소망하는 길은 없는 것일까요? 그 길은 생명의 주되신 예수 그리스도가 이 세상에 오시는 것입니다. 예수님의 오심을 우리가 간절히 소망하는 이유가 무엇입니까?

“내가 온 것은 양으로 생명을 얻게 하고 더 풍성히 얻게 하려는 것이라.(요10:10)

주님의 오심은 죽이고 멸망시키는 죄의 세력을 멸하고 세상을 살리시기 위함입니다. 그리고 예수 그리스도를 믿는 사람들을 통하여 죽음으로 치닫는 세상을 생명으로 풍성케 하기 위함입니다. 주님은 이 세상에 오셔서 십자가에 죽으시므로 세상을 살리셨습니다. 죽음이 지배하는 이 세상에 어떻게 생명의 역사를 일으킬 수 있는지 그리고 앞으로 그 생명의 번성이 누구에 의해 확산되고 성취되는지 알려주셨습니다.

2017년 특새 기간 동안 묵상한 말씀이 갈라디아서2장20절입니다. 이 한 절은 성경 전체를 요약한 복음 중에 복음입니다. 오늘 성탄을 맞아 전하려는 말씀은 “하나님의 아들을 믿는 믿음”입니다. 예수님은 요한복음14장6절을 통해 자신을 이렇게 소개합니다. “내가 곧 길이요 진리요 생명이니 나로 말미암지 않고는 아버지께로 올 자가 없느니라.이 말씀은 오직 생명은 예수님께만 있고 그 생명을 몸에 담아 예수만 사시는 자만이 생명을 잉태하고 생명을 풍성케 할 수 있는 것입니다. 그렇게 하나님의 아들을 믿는 믿음으로 사는 자만이 하나님께 나아갈 수 있음을 말씀하신 것입니다.

성탄절은 이 생명의 주가 오셔서 죽음의 고통 속에 신음하는 세상을 구원하러 오신 날을 기념하면서 생명의 주님이 세상에 오셔서 생명의 역사를 어떻게 일으키셨는지, 그리고 그 생명의 역사가 세상 가운데 어떻게 풍성하게 역사할 수 있는지 되새기는 날입니다.

그런 의미에서 오늘 성탄예배를 드리는 우리들이 주목해야 할 한 사람이 마리아입니다. 마리아는 갈릴리 나사렛이라는 변방에 작은 마을에 사는 아주 평범한 한 여인입니다. 그런데 생명의 근원이신 하나님의 아들이 마리아의 몸을 통해 세상에 오신 것입니다. 마리아의 몸을 통해 잉태한 예수님이 세상을 살리는 출발점이 될 수 있었습니다. 마리아는 메시아 오심을 기다리는 여인이었고 그 메시아가 오시면 어떤 일들이 이 땅에 이루어지는 그녀는 이런 믿음의 고백을 하였습니다.

그의 팔로 힘을 보이사 마음의 생각이 교만한 사람들을 흩으셨고, 권세 있는 자를 그 위에서 내리치셨으며 비천한 자를 높이셨고 주리는 자를 좋은 것으로 배불리셨으며 부자는 빈손으로 보내셨도다.”(눅1:51)

예수의 오심은 분명 마리아가 이해한 것처럼, 가난하고 곤고한 백성들, 버림받아 소외되었던 사람들을 들어 올려 존귀하게 하신 사건입니다. 그래서 성탄은 교만하여 세상을 죽음으로 몰아가는 그 모든 자들을 부서 버리고 죽음의 고통 속에 있는 모든 자들에게 새 생명을 주시는 소망의 날이 되었기에 온 인류가 기뻐하고 즐거워하는 날입니다.여기서 중요한 것은 세상을 예수의 생명으로 풍성하게 만드는 그 시발점이 비천한 여인 마리아였다는 점에 우리는 주목할 필요가 있습니다. 마리아가 자신의 몸에 하나님의 아들을 잉태하기 위해서는 율법에 따라 죽음을 당할 수 있는 결코 쉬운 선택이 아니었습니다. 그러나 마리아는 자신의 몸을 하나님의 말씀이 이루지는 도구로 하나님께 드립니다. 마리아는 하나님께 자신의 몸을 주기 위해서는 자기죽음이라는 희생을 대가로 지불해야만 했습니다.

그 선택은 마리아로 하여금 이 세상에 생명의 주가 오시는 통로가 되었고 그의 몸을 통해 잉태된 예수생명은 온 세상으로 확산되었고 더 풍성하게 되었습니다.. 마리아는 이 세상 모든 그리스도인을 상징하는 존재입니다. 하나님의 아들이 마리아의 태에 잉태하셨다는 것은 곧 이 세상 온 인류 가운데 잉태하셨다는 뜻입니다. 마리아 한 사람만이 아니다. 모든 인류가 은혜를 받은 것입니다. 다시 말해서 온 인류가 하나님의 은혜를 입어 예수 그리스도를 잉태한 것입니다. 예수 그리스도는 모든 사람을 위하여 오신 사람의 아들입니다. 은혜를 입은 마리아의 태는 온 인류의 태입니다. 하나님이 온 인류와 함께 하시는 것이요, 성령이 온 인류에게 임하신 것이며, 지극히 높으신 이의 능력이 세상을 덮으신 것입니다. 임마누엘의 역사가 시작된 것입니다.

우리가 그리스도와 함께 십자가에 죽고 이제는 내 안에 예수가 사셨다는 것은 우리 안에 그리스도가 잉태하셨다는 말씀입니다, 우리가 그리스도인이라면 우리의 몸은 마리아처럼 예수의 생명이 역사할 수 있는 자궁이 된 것입니다. 마리아처럼 우리도 어떤 환경 앞에서도, 죽음 앞에서도 그 어떤 희생을 감수하며 생명의 주를 모시는 거룩한 몸으로 산다면 하나님의 아들의 생명이 내 삶과 일본과 열방으로 확산되어 더 풍성케 될 것입니다.

 

말씀과 삶이 어우러지는 로고스라이프 교회

 

主なる御子は世を救うために来られました

人類の歴史は戦争の歴史だと言っても過言ではありません。その戦争は人類を死に追い込んだ殺戮(さつりく)の歴史です。人を死に追い込む死の勢力は、たった一度も休むことなく絶えず戦争ばかりか飢えと病いなどもあり、つねに人のいのちを脅かしています。

本来、死とは人間が避けられない運命なのですが、最近人間の死は自然死より人間の貪欲から始まった戦争、テロ、殺人などで死ぬ死の方が上回り、世を覆っています。では、人間の貪欲による死が溢れているこの世において、果たしていのちの繁栄を望める道はないのでしょうか。その道はいのちの主であるイエス・キリストがこの世に来られることです。イエスの臨在を私たちが切に望む理由は何でしょうか。

 “わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。”(ヨハネによる福音書10:10)

主が来られたのは死なせて滅亡させる罪の勢力を絶ち、世を救うためです。そして、イエス・キリストを信じている人たちを通して死に走っていく世をいのちで満たすためです。主はこの世に来られ、十字架で死なれ、世を救われました。死に支配されているこの世にどのようにいのちの働きを起こすことが出来るか、そして、これからいのちの繁栄がだれによって広がって成し遂げられるかを示してくださいました。

2017年特別早天祈祷会の期間中、黙想したみ言葉がガラテヤ人への手紙2章20節でした。この一節は聖書全体を要約したと言える福音(ふくいん)の精髄(せいずい)です。本日、クリスマスを迎へ、お分かちするみ言葉は“主の御子を信じる信仰”です。イエスはヨハネの福音書14章6節を通してご自身をこのように紹介されます。

“わたしが道であり、真理であり、だれひとり父のみもとに来ることはありません。”

このみ言葉である主に、ただいのちがあり、そのいのちを持って主だけが生きている者のみいのちを授かり、いのちを豊かにすることができるのです。このように主の御子を信じる信仰で生きる者のみ主に向かって進めることが出来るとおっしゃいました。

クリスマスはこのいのちの主が来られて死の苦痛で嘆く世を救うために来られた日であり。それを記念していのちの主が世に来られていのちの働きをどのように起こられたか、そして、そのいのちの働きが世の中でどのように豊かに働かれたか、それを覚える日です。

そのような意味で本日クリスマス礼拝を捧げる私たちが注目すべき人はマリヤです。マリヤはガリラヤのナザレという地方の小さい町に住んでいた平凡な一人の女性でした。ところが、いのちの根源である主なる御子がマリヤの身を通して世に来られたのです。マリヤの身体に身ごもられたのが、イエスが世を救われる出発点に成れたのです。

 

マリヤはメシヤの臨在を待っていた女性であり、そのメシヤが来られたらどのようなことがこの世に行われるか彼女はこのように信仰の告白をしました。

“主(しゅ)は、御腕(みうで)をもって力強い(ちからづよ)わざをなし、心(こころ)の思い(おも)の高ぶって(たか)いる者(もの)を追い散らし、権力(けんりょく)ある者(もの)を王位(おうい)から引き降ろされます。低い(ひく)者(もの)を高く(たか)引き上げ、飢えた(う)者(もの)を良い(よ)もので満ち足らせ、富む(と)者(もの)を何(なに)も持たせないで(も)追い返されました。”(ルカの福音書1:51-53)

イエスの降臨は確かにマリヤが理解したように、乏しくて困り苦しむ民たち、捨てられてのけ者にされている人たちを引き上げて尊くしてくださった出来事です。ですから、クリスマスは高ぶって世を死に追い込んだすべての者たちを追い散らして、死の苦痛の中にいるすべての者たちに新しいいのちを与える希望の日になったので、人類が喜んで楽しむ日なのです。

ここで、大切なのは、世をイエスのいのちを通して豊かにするその出発点が卑しい女性であるマリヤだったということです。マリヤが自分の身に主の御子を身ごもるためには、律法による死が待ち構え、それへの恐れがある、決して容易くはない選択が伴っていました。ところが、マリヤは自分の身を主のみ言葉が成し遂げられる道具として主に捧げます。マリヤは主に自分の身を捧げるためには、死という犠牲を代価として払わなければなりませんでした。この選択はマリヤによってこの世にいのちの主が来られる管になり、彼女の身を通して身ごもられたイエスのいのちは世に広がって豊かになりました。

マリヤはこの世ですべてのキリスト者を象徴する存在です。主の御子がマリヤの母胎に身ごもられたというのは、即ちこの世のすべての人類の中に身ごもられたということです。マリヤ一人だけではない、すべての人類が恵みを受けたのです。言いかえば、すべての人類が主の恵みの中でイエス・キリストを身ごもったのです。イエス・キリストはすべての人たちのために来られた人の子です。恵みを受けたマリヤの母胎は人類の母胎です。主がすべての人類とともにおられ、聖霊がすべての人類に臨まれ、いと高き方の力が世を覆われたことです。インマヌエルの歴史が始まったのです。

私たちがキリストと共に十字架で死に、もはや私のうちにイエスが生きておられるということは、私たちの内にキリストが身ごもられたということです私たちがキリスト者なら、私たちの身はマリヤのようにイエスのいのちが働く子宮になったのです。マリヤのように私たちもどのような環境にあっても、死の前でも、どのような犠牲があっても、いのちの主を迎える聖なる身で生きているなら、主の御子のいのちが私の人生と日本、そしてあらゆるところに広がってもっと豊かになるでしょう。

 

「み言葉(ことば)に生(い)きる」ロゴスライフ教会

[2017.02.05] 내가 생명의 떡이니라 [1](요한복음6:48)

내가 생명의 떡이니라 [1]

참된 신앙인이 되기 위해서는 우리 믿음의 대상이신 하나님을 바르게 아는 것이 중요합니다. 참 믿음의 근거는 우리가 결정하는 것이 아닌 오직 하나님께서 결정하시는 것입니다. 하나님은 그 믿음의 기준을 오직 예수 그리스도에게 두셨습니다. 그렇다면 우리는 예수 그리스도가 어떤 분이신지를 바르게 알지 않고는 하나님을 향한 참된 믿음을 형성할 수가 없습니다. 성경 전체가 예수 그리스도에 대한 말씀이지만 특히 요한복음은 예수님께서 친히 “나는 누구이다.”라고 자신의 존재를 정확히 밝혀주고 있습니다. 예수님이 자신에 대해 밝힌 사실을 정확히 이해하지 않고는 우리는 예수 그리스도를 바르게 믿을 수 없습니다.

요한복음6장에서 예수님은 자신을 처음으로 이렇게 소개하고 있습니다. “나는 생명의 떡이다.” 예수님께서 세상에 오신 그 목적은 바로 우리들에게 영생의 떡이 되어주기 위함임을 밝혀주신 것입니다. 예수님께서 자신을 소개하는데 있어서 “생명의 떡”이라고 밝히시는 것은 우리 인간들에게 중요한 한 가지는 양식의 문제라는 것을 말씀하고 계신 것입니다. 육신을 입고 사는 한 이 양식의 문제에서 자유로울 수 있는 사람은 한 사람도 없습니다. 세상의 문제는 다 양식의 문제로부터 시작된다고 봐도 과언이 아닙니다. 문제는 어떤 양식이 인간이 영생하게 하는 양식인지를 정확히 알고 우리의 매일 영원한 양식을 취하며 살아가야 합니다. 그래서 예수님은 사람들이 목숨을 걸고 찾아 다니는 ‘세상의 양식’ ‘썩을 양식’과 영생하는 양식을 대조하여 이렇게 말씀하셨습니다. 요한복음6장26-27절을 보겠습니다.

“예수께서 대답하여 이르시되 내가 진실로 진실로 너희에게 이르노니 너희가 나를 찾는 것은 표적을 본 까닭이 아니요 떡을 먹고 배부른 까닭이로다. 썩을 양식을 위하여 일하지 말고 영생하도록 있는 양식을 위하여 하라 이 양식은 인자가 너희에게 주리니 인자는 아버지 하나님께서 인치신 자니라.”

그렇다면 주님께서 금하시는 썩을 양식은 과연 무엇일까요? 예수님은 썩는 양식은 오병이어의 기적 현장에서 먹은 떡과 관련하여 말씀하셨습니다. 주님께서는 사람들이 배부르게 하는 양식을 구한 것을 잘못된 것이라고 말씀하시는 것이 아닙니다. 예수님의 지적은 자신들의 배를 부르게 해주신 주님께 계속해서 배부르게 해 달라고 찾아온 자들의 그 행위를 가리켜 ‘썩는 양식을 위한 일’이라고 말씀하시는 것입니다. 거기서 자신의 배를 불린다는 것의 의미는 단순히 먹을 것으로 배를 채우는 것을 말하는 것이 아니라 ‘자기만족’을 말하는 것입니다. 자기만족을 위해 주님을 좇는 자들이 바로 썩는 양식을 위해 일하는 자들임을 말씀하신 것입니다. 여기서 중요한 것은 주님께서 말씀하시고 주시겠다는 주님의 양식은 무엇인지를 아는 것입니다. 그 양식이 무엇입니까? 요한복음4장34절에서 말씀해 주고 있습니다.

“예수께서 이르시되 나의 양식은 나를 보내신 이의 뜻을 행하며 그의 일을 온전히 이루는 이것이니라.

여기 보시면 ‘나를 보내신 이의 뜻을 행하며 그 분의 일을 온전히 이루는 것’이 주님의 양식임을 알 수 있습니다. 예수님은 나의 뜻을 행하고 나의 목적을 온전히 이루는 것이 아닌, 자신의 삶속에서 자신이 부인되고 오직 하나님의 뜻을 행하고 하나님의 일을 온전히 이루는 것을 양식으로 삼으셨습니다. 바로 그 양식을 우리에게 주시겠다는 것입니다.

여기서 우리는 예수 그리스도를 믿는 참된 믿음이란 무엇인지를 깨닫게 되는 것입니다. 예수 그리스도를 주로 고백하고 그 믿음으로 산다는 것이 자기 자신을 위한 삶 즉 나의 구원, 나의 소원 성취, 나의 만사형통, 내 질병의 치유, 나의 행복, 나의 기쁨을 위한 신앙생활이라면 그것은 결국 썩는 양식을 위한 일’이라고 말씀하시는 것입니다.

우리가 예수 그리스도를 믿는다는 것은 하나님은 창조주이시고 자신은 피조물이라는 올바른 자각 아래에서 인생의 초점이 자신을 위한 삶에서 하나님의 뜻을 행하고 하나님의 일을 온전히 이루기 위한 삶으로의 대전환 하는 것을 말하는 것입니다. 다시 말해서 성도는 ‘나 중심’의 인생관에서 ‘하나님 중심’의 인생관으로 탈바꿈 하는 것입니다. 이렇게 ‘하나님 중심의 삶‘을 살아가는 것은 많은 희생을 감수하는 삶이어야 하고, 세상으로부터 자신을 더 투명하게 들어내어 거짓됨을 끊어내는 삶이며, 이웃을 사랑해야 하기에 상대의 모순된 행동에도 불구하고 상대방을 감싸 안고, 품어주고, 용납해 주어야 하는 삶을 사는 것입니다.

여러분, 성도는 더 이상 생존을 위해 사는 자들이 아닙니다. 성도는 생명을 위해 사는 사람들입니다. 나의 만족, 나의 자랑, 나의 행복이라는 생존의 삶을 거절하고 하나님만을 만족과 자랑과 기쁨으로 삼는 생명을 위한 삶을 사는 것입니다. 지금은 완전하지는 않지만 나라는 중심에서 예수 그리스도가 중심이 되는 몸부림이 있는지를 항상 살피며 그 길을 향해 한 걸음씩 걸어가는 삶이어야 합니다. 예수 믿는 것이 세상의 힘을 더 보태기 위함이거나 세상의 힘을 더 가지지 못해서 안달하며 그것을 얻는 방편이 된다면 이것은 썩을 양식을 위한 것입니다.

 

말씀과 삶이 어우러지는 로고스라이프 교회

わたしはいのちのパンである(1)

真の信仰者になるためには、私たちの信仰の対象である神様を正しく知ることが重要です。真の信仰の根拠は、私たちが決定するのではなく、ただ神様が決めることです。神様はその信仰の基準をただイエス・キリストに置かれました。それなら、私たちはイエス・キリストがどのような方かを正しく知らなくては、神様への真の信仰を持つことができません。聖書全体がイエス・キリストに対する内容ですが、特にヨハネ福音書は、イエスご自身が「私は誰かである」と自分の存在を正確に明らかにしています。イエスが自分自身について明らかにした事実を正確に理解しなくては、私たちは、イエス・キリストを正しく信じることができません。

ヨハネの福音書6章でイエスはご自身に対して初めてこのように紹介しています。 わたしはいのちのパンである」イエスがこの世に来られ、その目的は、まさに私たちに永遠のいのちのパンになってくれるためであることを明らかにしてくださったのです。イエスは、自分自身を紹介するのに「いのちのぱん」と語ったのは、糧食が私たち人間にとって重要な一つの問題であることを語っておられるのです。肉身を持って生きる以上この糧食の問題から自由な人は一人もありません。世界の問題は、全てが糧食の問題から始まると思っても過言ではありません。問題は、どのような糧食が人間に永遠の命を与えてくれるのかを正確に知り毎日、永遠の糧食を取り、生きるべきです。それで、イエスは人々が命をかけて探している「世の中の糧食」、つまり「なくなる食物」と永遠の命の糧食を対照してこのように言われました。ヨハネ6章26-27節をみましょう。

イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしをしているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて腹したからです。なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のためにきなさい。それこそ、人の子があなたがたにえるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」

それでは、主が禁じるなくなる食物はいったい何でしょうか?イエスは、なくなる食物に対しては五つのパンと二匹の魚の奇跡の現場で食べたパンに関連して言われました。主は、人々が肉身の糧食を求めることがダメだと言われることではありません。イエスの指摘は、自分たちを腹いっぱいさせた主に継続してお腹いっぱいしてもらうために訪れた人たちの、その行為を指して「なくなる食物のための行為」と言っておられるのです。そこで、自分の腹をいっぱいにするとの意味は、単に食べることでお腹を満たすことを言うのではなく「自己足」のことを言っています。自己満足のために、主に従う者がまさに、なくなる食物のために働く者たちであることを言われたのです。

 

ここで重要なのは、主がおっしゃってくださった下さる主の糧食が何かを知ることです。その糧食は何ですか?ヨハネの福音書4章34節で教えてくれています。

イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。

ここを見ると 「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げること」が主の糧食であることを知ることが出来ます。イエスは私の意を行なって私の目的を成し遂げるのではなく、自分の生活の中で自分が否定されて、ただ神様の意志を行なって、神様の事を成し遂げることを糧食とされました。その糧食を私たちに与えるということです。

ここで、私たちはイエス・キリストを信じる真の信仰とは何なのかを悟るようになるのです。イエス・キリストを主と告白し、その信仰によって生きることが自分自身のための生、すなわち私の救い、私の願い成就、私の万事のえ、私の病の治癒、私の幸せ、私の喜びのための信仰生活であれば、それは最終的には「なくなる食物のためのこと」とおっしゃるのです。

私たちは、イエスキリストを信じることは、神様は創造主であり、自分は被造物という正しい自の下での生活の焦点が、自分のための生活から神様の意志を行なって、神様の御胸を完全に成し遂げるための生活への大換することを言うことです。つまり聖徒は「私の中心」の人生観から「神様中心」の人生観に変わることです。このように「神様中心の生活」を生きていくことは、多くの犠牲を我慢する生活であり、世界から自分をより透明に明かし偽りを断ち切る生活であり、隣人を愛しなければならないため相手の矛盾した行動にもかかわらず、相手を抱えて、容認して与えなければなら人生を生きることです。

皆さん、聖徒は、もはや生存のために生きる者たちではありません。聖徒は、生命のために生きる人々です。私の満足、私の誇り、私の幸せというの生存の生活を拒絶し、ただ神様を満足し、誇りとし、喜びとする生命のための生活を生きることです。今は完全ではありませんが、私中心から、イエス・キリストが中心となる努力がいるかを常に見張り、その道に向かって一歩ずつ歩む人生になる必要があります。イエスを信じることが、世の中の力を増やす為か、そのの力を持たなくて熱心にしてそれを得る手段があれば、これはなくなる糧食のためのものです。

 

 

 

「み言葉きる」ロゴスライフ教会

[2016.07.24] 하나님은 전도의 미련한 것으로 세상을 구원하십니다 (고린도전서 2:7-15)|

하나님은 전도의 미련한 것으로 세상을 구원하십니다

(고린도전서 2:7-15)

담임목사  장 원규

영혼을 구원하는 사역을 전도라고 합니다. 전도는 교회의 본질이자 성도가 이 세상을 사는 동안 감당해야만 하는 사명입니다. 중요한 것은 전도는 인간의 수고와 노력 그리고 세상의 그 어떤 방법으로 이루어지는 것이 결코 아니라는 것을 바르게 알아야 합니다. 사도바울은 전도의 달인입니다. 평생을 전도하는데 바쳤고 바울 한 사람의 복음 증거 사역으로 이방인 선교의 길을 열어 영혼들을 살리는 구원의 큰 가교역할은 한 사도였습니다. 그런 사도바울이 우리에게 전도가 무엇인지 전도를 어떻게 해야 하는지를 가르쳐주고 있다면 이것은 꼭 귀담아 들어야 합니다. 사도바울이 가르쳐 주는 전도의 핵심은 반드시 버려야 하는 것과 꼭 준비해야 하는 것 두 가지입니다.

 

첫째는 전도는 인간으로 비롯된 모든 것을 버림으로 시작됩니다.

 

사도바울은 복음을 전하는 우리가 꼭 알아야 하는 것은 전도의 무용지물이 있다는 것입니다. 그것은 전도를 위해 반드시 버려야만 하는 것입니다. 1절을 보시기 바랍니다.‘형제들아, 내가 너희에게 나아가서’(고전2:1) 이 말씀은 ‘고린도 교회 사람들에게 복음 전하기 위해서 나아갔을 때’를 말하는 것입니다. 그리고 이어진 말씀은 “말과 지혜의 아름다운 것으로 아니하였나니”라고 말씀합니다. 이 말은 ‘자신의 말과 지혜의 아름다움은 전도의 무용지물이다.’라는 것입니다. 자신의 말과 지혜의 탁월함을 가지고 전도하겠다는 생각은 아예 던져 버렸다는 것입니다.

둘째로 전도는 두 가지로만 열매를 맺습니다.

 

1)하나는 복음입니다.

사도바울은 2절에서 이렇게 말씀하고 있습니다.“내가 너희 중에서 예수 그리스도와 그의 십자가에 못 박히신 것 외에는 아무 것도 알지 아니하기로 작정 하였음이라.” 이 말은 ‘나는 고린도에서는 오직 예수님의 죽음, 부활’만을 전도의 유일한 근거만 삼겠다는 말입니다. 사도 바울이 이렇게 말씀하는 것은 전도하는데 인간의 어떤 달변이나 설득은 아무 소용이 없다는 것입니다. 오직 “예수 그리스도께서 나의 죄를 위해 십자가에 죽으심과 삼일 만에 부활하신 이 복음을 믿는 자에겐 하나님의 자녀가 될 수 있고 영생을 얻습니다.” 이 복음의 능력이 구원의 유일한 길이며 방법이라는 것입니다.

2)또 하나는 성령의 능력입니다.

사도바울은 전도에 있어서 꼭 준비해야 하는 한 가지를 이렇게 말씀합니다. “내 말과 내 전도함이 지혜의 권하는 말로 하지 아니하고 다만 성령의 나타나심과 능력으로 하여”(고전2:4)

여기에 모인 우리들은 누군가에 의해 설득 당해 이 자리에 나와 있는 사람은 아무도 없습니다. 그것은 불가능한 일입니다. 이것은 부인할 수 없는 오직 성령의 역사입니다. 성령은 복음의 말씀을 듣는 자의 마음을 열어 믿음을 싹트게 하는 능력을 가지고 있습니다. 그래서 성경은 “너희 믿음이 사람의 지혜에 있지 아니하고” 즉 사람의 어떤 설득이나 아름다운 지혜 때문에 생긴 믿음이 아닌 “다만 하나님의 능력”으로 비롯되었음 말씀한 것입니다.

하나님께서 전도는 세상에서 가장 미련 행위라고 말씀하십니다. 그런데 하나님은 가장 미련한 전도를 통해 영혼을 구원하는 도구로 사용하셨다는 것입니다. “하나님께서는 전도의 미련한 것으로 믿는 자들을 구원하시기를 기뻐하셨도다.”(고전1:21)

그렇다면 우리가 이제 선교를 앞두고 시급히 준비해야 할 것이 있다면 무엇일까요? 전도는 우리의 눈에 보이는 적하고 싸우는 것 아닙니다. 눈에 보이지 않는 악령들과 싸우는 것입니다. 이것이 전도요 선교입니다. 이 전도에서 우리가 이기려면 복음 들고 나갈 때 성령의 능력이 함께 해야 합니다. 그래서 바울은 전도하는 것뿐만 아니라 성도라면 꼭 해야 하는 것에 대해 이렇게 강력히 명령하고 있습니다.

“모든 기도와 간구를 하되 항상 성령 안에서 기도하고 이를 위하여 깨어 구하기를 항상 힘쓰며 여러 성도를 위하여 구하라.”(엡6:18)

 

영혼구원은 영적 전쟁으로서 인간의 수고와 노력으로 가능한 것이 아닌 하나님의 영이신 성령님으로만 가능합니다. 성령의 충만함을 힘입는 길은 기도 외에는 다른 방법이 없습니다. 우리가 합심으로 기도하면 하나님의 영이 강력히 역사를 합니다. 사탄의 힘을 무력화시킵니다. 악령의 권세가 묶깁니다. 혼미한 심령에 생명의 빛을 비춰 죽었던 영혼을 살립니다.

 

오늘 우리 교회는 주 중에 있을 일본 단기선교를 앞두고 파송 예배로 드리고 있습니다. 우리 이번 일본 선교를 앞에 놓고 우리의 소중한 어린 영혼들을 위해 기도해야 합니다. 하나님께서 연결시켜 주신 리빙라이프 교회를 위해 기도해야 합니다. 특히 교회를 개척한 가정이 예수를 안 믿는데 교회를 개척했습니다. 이 얼마나 아이러니한 일입니까? 여기에는 특별한 하나님의 섭리가 있습니다. 그래서 우리는 그들을 위해 마음을 다해 기도해야 합니다. 반드시 하나님께선 죽은 영혼들을 죽음에서 영생으로 옮겨 놓는 기적이 일으켜 주실 것입니다. 이 영광스러운 복음을 하나님께서 우리에게 맡겨 주셨고 그것을 이루기 위해 복음과 성령을 주셨습니다. 우리의 달변도 필요 없고, 지식도 필요 없습니다. 자신감도 필요 없습니다. 인간적으로 연결된 모든 다 끊고 그 미련한 복음만을 들고, 성령님만을 절대 의지하여 순종하면 하나님께서 이 모든 일을 친히 행하시고 영광을 받으실 것입니다.

 


神は伝道の愚かなことで世界を救うれます

 

魂を救う働きを伝導と呼ばれます。伝道は教会の本質であり、聖徒がこの世を生きる間耐えなければならない使命です。重要なのは、伝道は、人間の手間と労力、そして世界のどんな方法で行われることが決してないことを正しく知る必要があります。

使徒パウロは伝道の達人です。生涯を伝道するために捧げ、異邦人宣教の道を開いて魂を生かす救いの大きな架け橋の役目を果たした使徒でした。そのような使徒パウロは、私たちに伝道が何であるか、伝道をどのようにすべきかを教えてくれているので、これを忘れないで傾けます。 使徒パウロが教えてくれる伝道の核心は必ず捨てなければならない事と必ず準備するべき事の2つです。

一つ目、道は人としての全てを捨てる事から始まります。

사使徒パウロは福音を伝える私たちが必ず知るべきな事は問答無用がある事です。それは伝道のために必ず捨てなければならない事です。1節をご覧ください。

さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき’(コリント人への手紙第一2:1) これは  ‘コリント教会の人々に福音を伝える時’を言うことです。そして続いた御言葉は私は、すぐれたことば、すぐれた知を用いて、神のあかしを宣べえることはしませんでした。とおっしゃっています。これは自分の口からな出るものと知道には必要ないと言うことです。自分の言葉と知恵の優れさを持って伝道しようとする考えを捨てたと言うことです。

二つ目、道は二つだけのを結びます。

1)一つは福音です。

使徒パウロは2節でこう言っています。

“なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。”

これは ‘私はコリントでただイエスキリストの死、よみがえり’だけを伝道の雄一道として伝えると言うことです。使徒パウロがこのように言われるのは、転倒する人間のどのような達弁や説得は無駄がないということです。ただ「イエス・キリストが私の罪のために十字架で死んだ事と三日目に復活された、この福音を信じる者には、神様の子となることができ、永遠の命を得た。」この福音の力が救いの唯一の道であり、方法である事ます。

2)もう一つは聖の能力です。

사使徒パウロは伝道のために必ず必要な一つをこう言います。

“そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。”(コリント人への手紙第一2:4)

ここに集まった私たちは、誰かによって説得されここに来た人は誰もいません。それは不可能です。これは否定できないただ聖霊の働きです。聖霊は、福音の言葉を聞く者の心を開いて、信仰を芽生えする能力を持っています。 それで聖書は“説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく” つまり人の説得や美しい知恵で信仰が出来る事ではなくただ聖の力で出来たことを言っています。

神様は伝道をこの世で最も愚かな行為と言います。しかし、神様は最も愚かなその伝道を通して魂を救う道具としてご利用になられました。

それゆえ、神はみこころによって、宣のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。”(コリント人への手紙第一1:21)

それでは私たちが伝道のために急いで準備するものは何でしょうか。伝道は、私たちの目に見える敵と戦うことはありません。目に見えない悪霊との戦いです。これが伝道であり、宣教であります。この伝導で、私たちが勝つために福音を持ち、聖霊の力が一緒にする必要があります。 それでパウロは伝道だけではなく聖徒であれば必ずするべきことに対してこのように強く命令しています。

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りをくし、また祈りなさい。”(エペソ人への手紙6:18)

魂の救いは、霊的な戦争としての人間の手間と労力で可能なものではなく、神の霊である聖霊のみ可能です。聖霊の満たし力を得る道は祈り以外の他の方法はありません。私たちが心を合わせて祈ると、神様の霊が強く働きます。サタンの力を無力化させます。悪霊の力が発揮できません。混迷した心霊に命の光を照らして死んだ魂を救います。

今日、私たちは今週中に行う日本短期宣教を準備し、送り礼拝として捧げています。私たちは私たちの前にいる我らの貴重な魂のために祈らなければなりません。神様が繋げて下さったリビングライフ教会のために祈るべきです。特に教会を作った家庭がイエスを信じないのにも関わらず教会を建てました。普段であれば、ありえないことでしょう。ここには特別な神様の働きがあります。そして、私たちは彼らのために心を尽くして祈るべきです。必ず神様は死んだ魂を死から永遠の命を与えて下さる奇跡を起こして下さいます。

この栄光なる福音を神様は私たちに任して下さいました。それのために福音と聖霊を下さいました。我らの優れた言葉も、知識も必要ではありません。自信感も必要ありません。人間的に繋がった全てを切り捨て、その愚かな福音だけを持って、聖霊だけを絶対頼り、従順すると神様がご自身で働き、栄光を捧げられます。

「み言葉きる」ロゴスライフ教会

 

[2016.07.17] 그리스도인은 세상의 결말을 본 사람들입니다 (야고보서5:7-11)

그리스도인은 세상의 결말을 본 사람들입니다

(야고보서5:7-11)

담임목사  장 원규

 

하나님을 믿는 사람들에게 천국에 대한 소망과 믿음이 없다면 우리의 신앙생활은 아무런 의미가 없습니다. 하나님의 세상을 향한 궁극적인 계획은 하나님을 온전히 믿는 성도들을 통해 새 하늘과 새 땅을 세우고 그리스도와 함께 세상을 통치하는 것입니다. 천국을 믿고 소망한다는 것은 곧 그 천국을 주시기 위해 다시 오실 주님을 매일 기다리면 사는 것입니다.

 

성경에서 말씀하시는 여러 주제들이 있습니다. 그 주제들은 우리들이 이 세상을 사는 동안 우리의 믿음을 지키기 위해서 반드시 알아야 하고 그 주제에 따른 삶을 살아가야만 합니다. 우리가 생각할 때 성경에서 가장 많이 다루고 있는 주제가 어떤 것이라고 생각하십니까? 성경의 핵심 주제는 영생입니다. 영생은 성경을 우리에게 주신 목적입니다. 그럼에도 불구하고 성경에서 가장 많은 언급을 하고 있는 주제는 재물, 돈에 관한 말씀입니다. 그리고 두 번째로 많이 언급한 주제는 예수 그리스도의 재림입니다. 신구약 성경은 재림의 약속으로 가득 차 있습니다. 구약에서는 1,845절이 재림에 관한 말씀이고 신약에서는 318절이 재림의 예언입니다. 신구약을 합친다면 재림은 2,100번이 넘게 언급하고 있는 주제입니다.

 

그렇다면 성경은 신앙의 본질인 구원에 관한 내용보다 왜 재물과 재림에 관해 많이 언급하고 있는 것일까요? 성경은 이미 하나님을 믿는 백성들이 접하는 책입니다. 하나님을 믿지 사람들이 성경을 읽다가 구원을 얻는 경우도 있지만 대부분은 성경을 읽는 것과 말씀을 듣게 되는 경우는 믿음을 갖고 난 그 이후부터입니다. 그렇다면 이미 하나님을 믿는 백성들에게 필요한 것은 구원을 받으라는 메시지보다 받은 구원을 어떻게 지속적으로 지켜 온전한 믿음에 서게 하고 인생의 궁극적인 목적지인 천국까지 이르게 하는 것입니다. 그렇다면 성경이 물질과 재림을 그렇게 많이 언급했겠습니까? 세상을 살아가는 인간에게 물질은 하나님을 대신할 수 있는 힘을 가지고 있습니다. 우리가 돈을 정복하지 않고 오직 하나님만을 인생의 유일한 힘으로 삼는 온전한 믿음에 설 수 없습니다. 또 하나는 온전한 믿음은 하나님께 우리에게 예수 그리스도 안에서 완성되는 하나님 나라 즉 천국에 대한 약속을 믿는 것입니다. 온전한 믿음은 예수 그리스도 안에서 약속된 그 나라에 이를 때까지 뒤돌아보지 않고 그 목적지를 향해 걸어가는 삶을 말하는 것입니다. 여기에는 반드시 따라야 하는 것이 인내입니다. 참된 믿음을 가진 성도라면 재림의 신앙으로 무장해야 하고 재림의 신앙을 가진 자라면 반드시 그날이 임할 때까지 인내하며 살아야 합니다. 왜 성경이 재림에 대해 이렇게 많은 내용을 담아 두셨는지 그 이유가 여기에 있었던 것입니다.

 

그렇다면 참된 믿음을 가진 성도라면 예수님의 재림이 속히 이 땅에 이루어지길 간절히 소망하며 살아야 합니다. 무엇보다 중요한 것은 재림을 소망하는 성도는 이 땅에 사는 동안 어떤 삶의 준비가 있어야 하는지를 바르게 아는데 힘써야 합니다. 그래서 야고보 사도는 그의 서신의 결론 부분에서 아주 중요한 한 주제에 우리 시선을 고정하도록 하고 있습니다.“그러므로 형제들아 주께서 강림하시기까지 길이 참으라.”(약5:7) 야고보 사도는 두 가지 면을 강조했습니다. 하나는 주님의 강림 즉 재림이며 또 하나는 이 세상에서 어떤 상황 가운데서 하나님의 약속을 믿고 끝까지 인내하는 것입니다.

하나님께서 우리의 믿음을 확증할 수 있는 여러 열매들이 있지만 그 중 하나가 인내입니다. 이런 점에 대해 야고보 사도는 하나님께 합격을 받은 대표적인 한 인물인 욥을 소개합니다.“보라 인내하는 자를 우리가 복되다 하나니 너희가 욥의 인내를 들었고 주께서 주신 결말을 보았다”(약5:11)

 

그렇습니다. 욥의 믿음이 증명되는 그 순간 하나님은 욥의 고난을 끝내십니다. 그리고 불 시험을 통과 한 욥에게 축복의 제2막의 인생을 열어주십니다. 욥은 하나님께서 인정하시는 그 온전한 믿음에 섰기에 새로운 세상을 열어주신 것입니다. 야고보 사도는 욥의 이 결말을 우리에게 말씀하고 있는 것은 우리 모두도 현재와 미래에 어떤 시련과 고난이 주어진다고 해도 우리 모두의 인생의 결말, 역사의 결말은 주의 재림과 동시에 펼쳐질 새 하늘과 새 땅이 우리에게 열리게 될 것이라는 것입니다. 그래서 그 날까지 우리의 믿음을 끝까지 지키며 인내할 것을 말씀하신 것입니다.

 

마지막으로 야고보 사도는 주님의 재림과 인내로 믿음을 굳게 하며 주님의 재림의 날까지 농부의 마음을 품고 살며, 서로 원망하는 않고, 지속적인 기도와 찬송의 삶을 살고, 진리에 떠나 있는 자를 돌아오게 하는 삶을 살라고 당부합니다. 그리스도인은 개인의 인생의 끝이 어디인지, 이 역사의 끝과 그 이후에 어떤 세상이 펼쳐지는지 그 결말을 다 본 사람들입니다. 그렇다면 우리는 앞으로 일어나는 그 어떤 두려움에 대해 두려울 것도 없고, 그 어떤 고통스런 일을 만나도 아파할 것도, 그 어떤 억울한 일을 만나도 속상해 할 것도, 가진 것 없어 가난해도, 힘이 없어 무능력 해 보여도 이제 우리는 이 역사의 끝에 이루어질 그 영광과 승리의 날을 기억하며 모든 것을 견디며 인내하며 기뻐하며 감사하는 삶을 멋진 인생을 사는 우리 모두가 되어야 할 것입니다.

 

말씀과 삶이 어우러지는 공동체

로고스라이프 교회

クリスチャンは、世界の結末を見た人々です。

神様を信じている人々に天国の希望と信仰がなければ、信仰生活は何の意味もありません。神様の世界に向けた最終的な計画は神様を完全に信じている信徒らを介して、新しい天と新しい地を建てて、キリストと共に世界を治めることです。天国を信じて望むということは天国を与えるために再び来られる主を毎日待ち望むことです。

聖書の中で語られる複数の主題があります。この主題は私たちがこの世を生きる間、私たちの信仰を守るために必ず知っておくべきことであり、その主題に従う生活を送らなければなりません。聖書の中で主も多く扱われている題材は何だと思いますか。

聖書の重要な主題は永遠の命です。永遠の命は聖書が私たちに与えた目的です。それにもかかわらず聖書の中で最も多くの言及をしている主題は、富、お金に関するみ言葉です。そして、二番目に多く言及した主題は、イエス・キリストの再臨です。新旧約聖書は再臨の約束で溢れています。旧約では1,845句が再臨に関するみ言葉であり、新約聖書では318句が再臨の預言です。新旧約を合わせた場合の再臨は2,100回以上言及している主題です。

では、聖書は信仰の本質的な救いの内容よりも、なぜ富と再臨について多く言及しているのでしょうか。聖書はすでに神様を信じる民が接する本です。神様を信じていない人々が聖書を読んで救われる場合もありますが、ほとんどは聖書を読むことやみ言葉を聞くことは信仰を持つようになってからです。では、すでに神様を信じる人々に必要なのは、救いを受けなさいというメッセージより、救われた信仰をどのように継続して全き信仰で人生の究極的な目的地である天まで至るのかということです。ならば、なぜ聖書が富と再臨を沢山言及していますか。世を生きる人間に富は神様の代わりにできる力を持っています。私たちはお金を征服することなく、ただ神様だけを人生の唯一の力とする全き信仰を持つことができません。

もう一つは、全き信仰はイエス・キリストの中で完成されている神様の国、すなわち、天国の約束を信じることです。全き信仰はイエス・キリストの中で約束されたその国に至るまで振り返らず、その目的地に向かって歩いていく人生をいうのです。ここに必ず付いてくるのが忍耐です。真の信仰を持つ信徒であれば、再臨の信仰で武装すべきであり、再臨の信仰を持つ者であれば必ずその日が臨む時まで忍耐し生きるべきです。なぜ聖書は再臨について非常に多くの内容が含まれているのかがその理由の訳です。

では、真の信仰を持つ信徒であれば、イエス様の再臨が早くこの地に臨むように切に望んで生きるべきです。何よりも重要なのは再臨を望む信徒が、この地に住んでいる間

どのような生活の備えが必要なのかを正しく知っておくべきです。そして、ヤコブ使徒は

彼の手紙の結論部分で非常に注目すべき重要な主題を私たちに示しています。「こういうわけですから、兄弟たち。主がられる時まで耐え忍びなさい。」(ヤコブの手紙57

ヤコブ使徒は2つの点を強調しました。一つは、主の降臨、すなわち再臨であり、もう一つは、この世でどのような況の中でも神の約束を信じて最後まで耐え忍ぶことです。私たちの信仰を確証することができるいくつかの実がありますが、その中の一つが忍耐です。忍耐にあってはヤコブ使徒が神様に認められた代表的な人物の中で一人を紹介しています。それはヨブです。

「見なさい。耐え忍んだ人は幸いであると、私たちは考えます。あなた方は、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。」(ヤコブの手紙5:11

 ヨブの信仰が認められたその瞬間、神様はヨブの苦難を終わらせます。そして火の試練に合格したヨブに祝福の第2幕の人生を開かせてくださいます。ヨブは神様が認めた全き信仰を持ったので、新しい世界を開いてくださったのです。ヤコブ使徒はヨブのこの結末を私たちに語っているのは、現在もしくは将来にどのような試練と苦難が与えられても、人生や歴史の結末は主の再臨と同時に新しい天と新しい地が私たちに開かれることを伝えています。なので、その日まで、私たちの信仰を最後まで守って忍耐することを言われたのです。

最後に、ヤコブの使徒は主の再臨と忍耐で信仰を堅くし、主の再臨の日まで農家の心を抱いて生き、互いに恨むことなく、継続的な祈りと賛美の生活を送り、真理から離れている者を連れ戻すような人生を生きなさいと勧めています。

クリスチャンは人生の終わりがいつなのか、この歴史の終わりとその後にどのような世界が広がるのか、その結末をすべて見た人々です。それでは、我々はこれから起こるどんな恐怖についても恐れることなく、あらゆる痛みに直面しても苦しむことなく、どんな悔しいことに遭っても落ち込むことなく、何も持っていなくて貧しくても、力がなくて無能力に見えても、この歴史の終わりに行われるその栄光と勝利の日を覚えて、すべてのことを耐えて忍耐して喜んで感謝する生活を送る素晴らしい人生を生きましょう。

 

「み言葉きる」ロゴスライフ教会